『I f 』26「後水尾天皇の幕府に無断での譲位、女帝誕生は後水尾の反撃」

『I f 』26「後水尾天皇の幕府に無断での譲位、女帝誕生は後水尾の反撃」
 徳川幕府の三代将軍家光の時代、後水尾天皇が幕府に無断で退位し、女性
の明正に皇位を譲りました。一般には徳川幕府の基盤が磐石なものとなった
のが家光の時代といわれます。武家諸法度に続いて、禁中並びに公家諸法度、
天皇の叙任権、そして紫衣(しえ)事件などで公家や天皇・朝廷にも干渉。
そのため精神的に屈辱を味あわされた天皇が追い詰められて退位、二代将軍
徳川秀忠の娘、中宮・和子(まさこ)が後水尾との間でもうけた明正(めいし
ょう)天皇に譲位させられたと考えがちです。

後水尾天皇の退位・譲位は幕府の専横に対する反撃・嫌がらせ
 しかし、これは実は後水尾天皇が退位も譲位も、本来、幕府に事前に相談
し、形としては幕府の了承を得たうえで実行するはずのところを、いきなり
幕府には無断で推し進めたことでした。後水尾天皇の幕府に対する反撃とい
うか、強烈な嫌がらせだったのです。
 改めてこの「にわかの譲位」事件を記すと、1629年(寛永6年)11月8日早
朝、異例の参内命令が出され、困惑する公卿たちを尻目に、皇位継承という
重大事が、前関白・近衛信尋すら知らされないまま、ごく一部を除いて秘密
裡に運ばれたのです。このとき退位したのは後水尾天皇ですが、新たに践祚
(せんそ)したのは年齢わずかに7歳という少女、興子(おきこ)内親王(=明正
天皇)でした。異例中の異例な天皇交替劇だったのです。

武家政権の下での初の女帝は驚天動地の事態
 「承久の乱」(1221年)に武家が天皇廃立を行ったのを最初に、幕府に無
断で行った皇位継承は事実上無効、との慣例が定着していました。それを無
視した退位強行でした。また、武家の世になって以来、例をみない女性の天
皇の出現は、男性原理・家父長制の権化というべき徳川幕府にとって、驚天
動地の事態でした。
 興子内親王は大御所・秀忠の孫にあたり、この践祚によって徳川将軍家は
外戚となるわけですが、和子の入内は決して女帝の登場を期待して行われた
わけではありませんでした。“首謀者”後水尾天皇はまんまと幕府を出し抜
いて譲位を敢行したのでした。
 江戸時代の天皇は、非常に気の毒な存在でした。石高はわずか4万石です。
「士農工商」の農民に対する年貢ではないですが、“生かさぬように、殺さ
ぬように”という、家康以来の精神が、天皇・朝廷に対しても及んでいまし
た。