藤原基経・・・長く朝廷の実権を握り藤原摂関家隆盛の基礎をつくり上げる

 藤原基経は初の摂政・関白・太政大臣を務め、いわゆる藤原摂関家隆盛の基礎をつくりあげた人物だ。清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。また陽成天皇を暴虐だとして廃し、光孝天皇を立てたほか、次の宇多天皇のとき「阿衡事件」を起こして、天皇をも凌ぐ権勢を世に知らしめた。時の天皇もこの基経には、細心の気を使いながら詔(みことのり)するありさまだった。まさに怪人だ。基経の生没年は836(承和3)~891年(寛平3年)。
 藤原基経は藤原一族の中でも最大の権勢を誇った藤原北家、藤原長良の三男として生まれた。母は仁明天皇の女御沢子(たくし)と姉妹の関係にある藤原乙春(おとはる)。正室は仁明天皇と沢子との間に生まれた人康(さねやす)親王の娘だ。幼名は手古。官位は従一位、贈正一位。堀河大臣と号した。漢風諡号は昭宣公。
 太政大臣だった叔父・藤原良房に見込まれて養嗣子となり、養父の死後、氏長者となった。851年(仁寿1年)、16歳で文徳天皇から加冠されて元服し、852年(天安2年)に即位した清和天皇のもとで蔵人頭となり、864年(貞観6年)には29歳で参議となった。2年後の「応天門の変」で源信の無実を伝え、伴善男が失脚した後、7人を抜いて中納言となり、872年には正三位右大臣となった。基経37歳のときのことだ。とんとん拍子の栄進は、もちろん養父の後ろ楯によるが、彼は政治家として非凡の器だった。
 基経の政治と特色は、養父良房の先例を、法的に整合性を持った体系として位置づけようとした点にあり、後世に先例として尊重された。
 876年、清和天皇が27歳の若さで突如退位し、即位したのはわずか9歳の陽成天皇だった。時の実力者は天皇の母高子(こうし)の兄、基経だった。彼が摂政となって事実上朝政をみることになった。陽成天皇は乳母を手打ちにしたり、宮中で馬を乗り回したり、小動物に悪戯をして殺生を重ねたその風狂ぶりは目に余るものがあり、周囲のものは天皇に翻弄されるばかりだったとも伝えられる。そんな天皇もある日、書簡を寄せて、病気のため譲位の意向をほのめかした。そこで基経も天皇の退位を企図。彼は皇位継承者の人選を進め、55歳の時康(ときやす)親王(=光孝天皇)の擁立を決めた。時康親王の母と基経の母とが姉妹だったこと、時康親王自身が政治に無関心だったことも基経が政務を独占するのに好都合だったからだ。
 基経の独裁ぶりはまだまだ続く。それから3年後の887年(仁和3年)、天皇の病気が重くなったのを機に、基経は天皇の皇子で臣籍に下っていた源定省(さだみ)を親王に復させ、皇太子に立てた。そして、光孝天皇の崩御に伴い即位、宇多天皇を実現させた。つまり、当代きっての実力者で関白の基経が、その権勢を背景として事実上、皇位継承の方針を決め、源定省を親王に復帰させ、ほぼすべての手順が基経の意向通り運ばれたのだ。その結果、基経の強烈な権力志向はとどまるところを知らず、新帝=宇多天皇との間に齟齬をきたした。そして、遂に「阿衡の紛議」が発生した。
 887年(仁和3年)、宇多天皇の即位後まもなく、摂政、太政大臣基経に対し、基経への関白任命が発令された。この就任要請の中に記された一文、「阿衡」の解釈をめぐって、基経が意地を通したのだ。彼は頑なに出仕を拒み、その期間は半年以上にも及んだ。この事件は橘広相と藤原佐世を中心に多くの学者間の論争に発展した。この事件には、この機会を捉え自己の意向を押し通し、関白の地位を不動のものにしようとする基経の政治的思惑が強く働いていたことは間違いない。そして、基経の狙い通り決着した。
 こうして確立された藤原北家の比類なき権勢は、基経の子供世代、時平・仲平・忠平に引き継がれていく。
(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」