木戸孝允・・・“逃げの小五郎”時代を経て明治新政府の長州の代表者に

 木戸孝允は周知のとおり、西郷隆盛、大久保利通と並び称せられた「明治維新の三傑」の一人だ。確かに明治新政府における彼らの働きは群を抜いたものだった。薩・長・土・肥というが、これらの藩にはじめから統一した見解があったのではない。肥前は鍋島閑叟の態度にみられるように、完全に中立の態勢を取っていたし、土佐も山内容堂などは討幕に反対だった。坂本龍馬、中岡慎太郎ら家臣の一部が脱藩して、討幕に参加したまでのことだ。これに引き替え薩摩と長州は曲折があった後、連合し、新政府の推進力となった。この二藩が支えと成らなかったら、新政府は雲散霧消していただろう。木戸孝允の生没年は1833(天保4)~1877年(明治10年)。

 新政府で政局の中枢を握る者が、薩・長の二藩から出るのはまず妥当なことだった。長州を代表するのがこの木戸孝允だった。薩摩には西郷、大久保があるが、長州は木戸のみだった。長州藩に人材が少なかったのではない。維新後でいえば大村益次郎、もっと時代をさかのぼれば周布政之助、長井雅樂、高杉晋作、久坂玄瑞など多くの人材があったが、1869年(明治2年)京都の旅宿で刺客に襲われて死んだ大村はじめ、すでにすべて亡くなっていたのだ。

 木戸孝允の比重は高まるのみだった。彼は1849年(嘉永2年)、吉田松陰の門弟となり、その後江戸に出て、志士たちの集まる斎藤弥九郎道場の師範代を務め、水戸や土佐の藩士たちとの交渉もあったほか、全国的な顔の広さを持っていた。それに江川英龍に洋式砲術を学び、蘭学を学び、西洋事情にも詳しく、名実ともに長州藩を代表し、新政府の方向付けにはなくてはならぬ人材だった。

 その木戸、以前の名で桂小五郎は剣の道でも一流を極めながら、自ら刀を抜いて勝負を争ったことは一度もなかった。用心深い彼は、常にそうした争いの場所を避けて通ったのだ。1863年(文久3年)八・一八の政変のあとの京都は、会津藩の見廻組や、新選組などが探索の目を光らせ、志士にとっては実に物騒な場所だった。木戸は絶えず住所を変えながら、警戒の目をかいくぐって働いた。だから、彼には“逃げの小五郎”というようなあだ名さえ付いていた。池田屋騒動のとき、蛤御門の戦い(禁門の変)のときもそうだった。

 木戸は開明的だったが、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治維新政府の中にあっては、心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となったが、夢うつつの中でも「西郷、いいかげんにせんか!」と西郷隆盛を叱責するほど、明治政府と西郷隆盛軍双方の行く末を案じながら息を引き取ったという。

 長門国萩呉服町(現在の山口県萩市)で萩藩医、和田昌景の長男として生まれた。7歳のとき、桂家の末期養子となり長州藩の武士の身分と秩禄を得た。「木戸」姓以前の旧姓は、15歳以前が「和田」、15歳以後が「桂」だ。小五郎、貫治、準一郎は通称。「小五郎」は生家、和田家の由緒ある祖先の名前。「木戸」姓は第二次長・幕戦争前、1866年(慶応2年)に藩主毛利敬親から賜ったものだ。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、司馬遼太郎「幕末 逃げの小五郎」、南条範夫「幾松という女」