由比正雪は、丸橋忠弥らと謀って徳川幕府を転覆させようとした謀反人だとされている。徳川三代将軍家光の頃には、関ヶ原の合戦において生まれた浪人が全国津々浦々にいた。幕府はこうした浪人が反幕府の力として結集せぬよう心を砕いた。浪人の取り締まりも厳しいものがあり、由比正雪はこれら浪人に対する幕府のやり方に反発し1651年(慶安4年)、それを正すために謀叛の挙に出たというわけだ。これが「由比正雪の乱」ともいわれる「慶安の変」で、この事件を起こしたことで、彼の“悪役”像がつくられることになったのだ。
由比正雪は江戸時代初期の軍学者。「油井正雪」「由井正雪」「油比正雪」「遊井正雪」「湯井正雪」など様々に表現される場合もある。生没年は1605年(慶長10年)~16051年(慶安4年)。駿河由比の農業兼紺屋の子として生まれたといわれる。幼名は久之助。幼い頃より才気煥発で、17歳で江戸の親類に奉公へ出たが、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰の弟子になると、その才能を発揮し、やがてその娘と結婚し、婿養子となった。
楠木正雪あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「油井民部之助橘正雪(ゆい・かきべのすけ・たちばなの・しょうせつ/まさゆき)」と名乗り、やがて神田連雀町に楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」(中国の名軍師、張良と孔明にちなむ)を開いた。大名の子弟や旗本なども含め、一時は3000人の門下生を抱え、絶大な支持を得たという。まずは順風満帆な軍学者としての生活を送っていたとみられる。
こうした環境にあって、なぜ正雪が幕府転覆計画を立てた首謀者として追及されることになるのか?軍学塾の主宰者として、巷にあふれた、行き場のない浪人たちを目の当たりにして、立ち上がざるを得なかったのか、学者として理論と実践の重要さを門下生に教えるためだったのか?そこに至る経緯はよく分からない。しかし1651年(慶安4年)、三代将軍家光が没し、四代将軍家綱が11歳で将軍に就いたが、大名の取り潰しなどで多数の浪人が出て、社会は騒然とした状況にあった。
正雪は宝蔵院流の槍術家、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義などとともに、浪人の救済と幕府の政治を改革しようと計画。1651年(慶安4年)7月29日を期して江戸・駿府・京都・大坂の4カ所で同時に兵を挙げ、天下に号令しようとしたが、事前に同志の一人が密告、この計画が発覚する。「慶安の変」と呼ばれる事件だ。正雪は移動途中の駿府梅屋町の旅籠で奉行の捕り方に囲まれ、部下7名とともに自刃した。享年47。しかし、幕府はさらに追及して、連累者2000人、うち1000人を断罪して決着をつけた。だが、一説によると、これは幕府の陰謀で、浪人弾圧の口実をつくるため、デッチあげたのだという。
正雪の意図は、天下を覆すことではなく、幕府の政道を改めようとし、そのため徳川御三家をも利用しようとしていた。このことは、真偽のほどは分からないが、徳川御三家・紀州徳川家の家祖、徳川頼宣(家康の十男)の印章文書を偽造していたという嫌疑がかかったことでも明らかだ。このため、一時は頼宣も共謀していたのではないかとの疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった。頼宣は、後に紀州から出て徳川八代将軍となった吉宗の祖父だ。
正雪のこうした目論見を、幕府の「知恵伊豆」といわれたマキャベリスト、松平伊豆守信綱が反乱事件として拡大、歪曲し、一挙に旧大名の残党を掃討し、徳川体制の不安を取り除いたのだという見方もある。だが、真相は分からない。
(参考資料)村松友視「悪役のふるさと」、山本周五郎「正雪記」、 武田泰淳「油井正雪の最期」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、安部龍太郎「血の日本史」、小島直記「無冠の男」