矢部定謙(やべ・さだのり)は江戸時代・天保年間、庶民の間でも支持された南町奉行だったが、鳥居耀蔵の策謀に遭い、罷免され、失意のうちに悲惨な最期を遂げた。矢部は1841年(天保12年)南町奉行職を罷免された。在職期間はわずか8カ月だった。代わって南町奉行職に就任したのがその鳥居だった。そこで世間では今日風に表現すれば、大きなブーイングが起こった。
当時、江戸の巷で矢部と鳥居がどのように見られていたかを示す落首がある。「町々で お(惜)しがる奉行の 矢部にして どこが鳥居で 何がよふ蔵」。当時の矢部の声望と、鳥居の人気のなさがほぼ察せられる。このあと鳥居は南町奉行として、水野忠邦が推進した「天保の改革」の一翼を担い、徹底的な酷吏ぶりを発揮して、世間から妖怪(耀甲斐=甲斐守耀蔵を逆さにもじり、“ようかい”にかけたもの)と恐れられ、疎まれるようになるのだ。
矢部定謙は、幕臣・矢部彦五郎定令の子として生まれた。名は父と同じ彦五郎と称した。持高300俵の身分から矢部は徒士頭(かちがしら)、御先手頭を務め、1828年(文政11年)火付盗賊改役となり、1500石を賜り、左近将監(さこんしょうげん)を名乗った。矢部の生没年は1789(寛政元)~1842年(天保13年)。
矢部の出世は火付盗賊改役のとき、老中・大久保加賀守に命じられて、三之助という悪党を捕縛し、当時の町奉行所の悪弊を一掃したことに始まった。三之助は町奉行所の手付同心、神田造酒右衛門の手先で、武家屋敷へ中間や小者を送り込む人宿(ひとやど)を生業としていた。自分も中間部屋の頭として住み込み、旗本屋敷で賭場を開き、莫大なテラ銭を稼いで産を成したのだ。
しかも三之助は頭のいい男で、常に火付盗賊改役の旗本屋敷に住み込み、そこで博打をやるので、絶対に捕吏に踏み込まれることがない。さらに見逃し賃として両町奉行の与力や両番所の定回りなどに付け届けをし、住み込んだ屋敷の旗本や用人にも同様のことをしていたから、誰に咎められることもなかった。こういう男が常々、まかり通るほど、当時の幕府の役人たちは内情が腐っていたのだ。とにかく、この三之助召し捕りがきっかけとなり、矢部は堺奉行に栄転し、駿河守に叙任された。
矢部は1833年(天保4年)に大坂町奉行へ昇進、3年後の1836年(同7年)には役高3000石の御勘定奉行へと進み、順風満帆の出世街道を歩いた。矢部が大塩平八郎と知り合ったのは大坂町奉行の在職中で、当時、平八郎は大坂東町奉行所の与力を38歳の若さで退き、中斎と号し、陽明学に打ち込んでいた。矢部が西町奉行として赴任した頃は、大塩はすでに隠居していたが、彼は大塩の気骨、学殖を高く買い、しばしば招いて相談相手としていたようだ。要するに、矢部は大塩の人物を知り、男同士、肝胆相照らすものがあったのだ。
矢部は天保8年、御勘定奉行の栄職から西ノ丸御留守居へと左遷された。これは、すべて彼の“硬骨”によるものだ。というのは前将軍・家斉が住んでいた西ノ丸が焼け、幕府の老中たちがこの大御所のため早速再建を企画したが、矢部が「(当時)凶作の後、諸国は困窮している。だから当面三ノ丸で過ごしてもらい、時を待って修理、再建すればいいのではないか。それが国を治める道ではないか(要旨)」と一人で、これに反対を唱えたため、前将軍の怒りを買ったのだ。一見、無謀とも思える発言をしてしまったのだ。
しかし、実力派・矢部は2年後、願い出て小普請支配に転じる。そして、その2年目、彼は今度は南町奉行として見事に返り咲くのだ。前将軍の怒りを買って、左遷されてから4年目のことだ。ここでまた矢部は、北町奉行・遠山景元と協同して、水野忠邦が推進した「天保の改革」に対抗した。ただ、この復活は冒頭に述べたとおり、鳥居耀蔵の策謀により罷免され、わずか8カ月に終わった。1842年(天保13年)、預りとなった伊勢桑名藩で矢部は自ら絶食、死去した。没後、矢部の見識の正しさが証明された。このため、川路聖謨(かわじとしあきら)ら幕末期の官僚からは、矢部の非業の死を惜しまれることになった。
(参考資料)童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」、白石一郎「江戸人物伝」