「大坂幕府構想」検討の可能性示す新たな書状見つかる

「大坂幕府構想」検討の可能性示す新たな書状見つかる

江戸時代初期、大坂を徳川幕府の本拠地とする「大坂幕府構想」が検討されていた可能性を示す、将軍の側近周辺の人物が記した新たな書状が見つかった。
書状は花押や筆跡などから「大坂の陣」(1614~15年)の後、大坂城の建て直しを担当していた小堀遠州が、義理の父親でニ代将軍(大御所)徳川秀忠の側近、藤堂高虎(津藩主)に宛てたもので、記された内容から寛永3(1626)年に書かれたと考えられる。
書状の中で遠州は、大坂城の茶室の庭に置く石を献上するように進言し、その理由について「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところ」と説明している。誰の城になるかは明記されていないが、調査にあたった三重大学の藤田達生教授によると、城に「御」という敬称が付けられていることなどから、当時江戸城にいた大御所の秀忠や三代将軍、家光の居城になるという前提で、遠州が大坂城の整備を進めていたことが分かるという。
徳川幕府の拠点を大坂に移す構想は、実は別の史料にも記されている。1615年に豊臣家が滅亡した「大坂夏の陣」の直後に上洛した薩摩藩の島津家久の話だ。この史料には家久が幕府の上層部から大坂城を当時の将軍、秀忠の居城にするという計画を聞いたと記録されている。