中根正盛 江戸時代前期の幕府のCIA長官で、“密事”を嗅ぎ出し、探索

中根正盛 江戸時代前期の幕府のCIA長官で、“密事”を嗅ぎ出し、探索

 中根正盛は徳川三代将軍家光の時代、幕府要人の言動や諸大名の動静を報告する、幕府のいわば“CIA長官”だった。こうした役目は通常、表には顔を見せない隠密が担当するものだが、中根はそんな裏稼業を担っていたわけではない。彼は5000石取りの高官であり、二の日の評定所会議にも出席し、老中、諸奉行の発言を克明に脳中にメモってくる資格を持っていた。また、彼の配下の22人の与力は常時、諸国に派遣され、大名の動きを探っていた。

 探索の際、中根は幕府のため、各国(藩)の密事を嗅ぎ出せ。腐臭、腐肉のみに眼を向けよ。また嗅ぎ出した腐臭、腐肉はありのまま報告せよ。自分の判断や評価はしてはならない-と与力たちに指示した。まさに、幕府の諜報機関そのものであり、与力は22人の諜報員だった。

 そんな徳川版CIAが扱った事件・事案として記録が残っているのが、「松平定政事件」の処分に端を発した、浪人救済を意図した1651年(慶安4年)の「慶安事件」(油比正雪の乱)だ。

 松平定政は、徳川家康の異父同母弟の子で家康の甥にあたる。家光の小姓をしていたが、家光も好感を持っていた。1651年(慶安4年)春、家光が亡くなった。後継の四代将軍家綱はまだ少年だ。将軍交代を待っていたかのように、くすぶっていた浪人の生活困窮問題が突然火を噴いた。関ヶ原の戦い以来、大坂冬・夏の陣で取り潰しになった大名家が数多くあり、それに伴い多数の武士が失業に追い込まれたからだ。

 松平定政は7月突然、幕府に対し自分が受けている2万石は全部返上するから、これで失業浪人を救ってくれ-と言い出して大名職を辞し、雲水に身を変えた。それだけでなく、江戸市中を歩き回り、浪人救済のために、ご喜捨を-などと物乞いを始めたのだ。世間は驚倒した。仮にも、前将軍の叔父にもあたるような定政が、大名を捨てて乞食坊主になるなど、本人の意思や思惑はともかく、幕府に対する最大の嫌がらせと受け止められた。

 早速、幕閣は定政を狂気の者とし、兄の松平隠岐守に預け、所領を没収した。しかし、これで事が収まったわけではなかった。この中根正盛も定政の真意が浪人救済にあるのではなく、むしろ幕政批判にあるとみていたからだ。家光死後の閣僚、土井利勝、酒井忠勝、阿部忠秋、松平信綱らの政策が、定政はことごとく気に入らないのだ。とくに松平信綱が気に入らない。大名職と封土の返上は、いまの幕政に一石を投じたつもりだろう。したがって、定政が取った行動の根は深く、罪も重い-と中根は判断した。

 松平定政の処分が発表された後、油比正雪に関する密告が、松平信綱や町奉行の石谷(いしがや)貞清のところにあったとの情報が中根のもとに入ってきた。密告者の多くは中根や松平信綱が前々から神田連雀(れんじゃく)町の裏店(うらだな)にある油比正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者ばかりだ。“やらせ訴人”だ。

 中根は配下の与力(=諜報員)を、かなり前から駿河(現在の静岡県)、河内(同大阪府)、大和(同奈良県)、紀伊(同和歌山県)、京都などへ派遣していた。油比正雪の素性、学問歴、そして正雪が唱える楠木流の軍学などを調べさせていた。

 これは、松平信綱と正盛に、油比正雪一派の鎮圧とともに、先の松平定政よりももっと大きな幕政批判者、紀伊頼宣(紀州藩藩祖・徳川家康の十男)を、この際、一挙に叩き潰そうという謀計があったからだ。頼宣は豪放かつ英明な器量人で、武功派の盟主だった。彼は幕政が次第に、合戦を知らない若い吏僚の手で運営されることに反発し、浪人をすすんで抱えた。

そのため、外様大名や浪人、庶民から非常に好感されていた。それだけに、幕閣の文治派閣僚はそんな頼宣に警戒していた。とくに松平信綱は、厳しい眼差しで紀州をにらんでいた。中根が配下の与力を紀州に派遣したのも頼宣と由比正雪との関係を何としても立証しようというためだった。たとえ火のない煙でも、探り出せ-と厳命した。頼宣、正雪の両者に少しでも関係があれば、強引に処罰、断罪しようという姿勢だった。

 しかし、紀州の探索方3人からは、信綱、中根が期待した答えは返って来なかった。頼宣、正雪の両者に関わりは全くない-というものだった。これでは、頼宣の弾劾はとてもおぼつかない。だが、信綱、中根とも、それで諦めたわけではなかった。

 由比正雪の死体が駿府の河原で磔(はりつけ)にされ、丸橋忠弥らが品川で

処刑されて、この騒乱は一応終わった。が、その直後、頼宣は江戸城に召喚された。そこでは頼宣の言葉が引用された、由比正雪の遺書が用意されていた。頼宣が正雪を示唆、煽動したと解されてもやむを得ない文面がつづられていた。そのため頼宣も、もう覚えがないでは切り抜けられなかった。完全な頼宣の敗北だった。あぶら汗の出るような屈辱の怒りを、こらえるほかなかった。

 頼宣は四代将軍家綱あてに、全く二心なきことを認めた誓紙を書かされたうえ、この日から1659年(万治2年)まで10年間、国許の紀伊国(和歌山県)へ帰ることは許されず、江戸城内で暮らした。松平信綱、中根正盛の勝利だった。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」、童門冬二「慶安事件 挫折した幕府転覆計画」、童門冬二「男の器量」、安部龍太郎「血の日本史」