陸奥宗光・・・“カミソリ陸奥”の異名持ち不平等条約の改正に辣腕振るう

 陸奥宗光は幕末、勝海舟の「神戸海軍操練所」に入り、坂本龍馬の「海援隊」に加わるなど始終、坂本龍馬と行動をともにした。明治維新後は政治家、外交官となり、“カミソリ陸奥”の異名を持ち、とりわけ外務大臣として不平等条約の改正に辣腕を振るった。陸奥宗光の生没年は1844(弘化元年)~1897年(明治30年)。

 陸奥宗光は紀州国名草郡(現在の和歌山市)で、紀州藩士伊達宗広(伊達千広の説もある)と政子(渥美氏)の六男として生まれた。幼名は牛麿(うしまろ)。生家は伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫。伊達小次郎、陸奥陽之助と称した。

 国学者、歴史家としても知られていた父の影響で、宗光は尊皇攘夷思想を持つようになった。父は紀州藩に仕えて財政再建を成した重臣だったが、宗光が8歳のとき(1852年)、藩内の政争に敗れて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活がおとずれた。

 1858年(安政5年)、宗光は江戸へ出て安井息軒、水本成美に学び、土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(後の木戸孝允)、伊藤俊輔(後の伊藤博文)などの志士と交友を持つようになった。1863年(文久3年)、勝海舟の「神戸海軍操練所」に入り、1867年(慶応3年)には坂本龍馬の「海援隊」に加わるなど始終、坂本龍馬と行動をともにした。勝海舟と坂本龍馬の知遇を得た宗光は、その才幹を発揮し、龍馬に「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」といわせたほどだったという。

 明治維新後、宗光は兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)、さらに1875年元老院幹事となったが、1877年の西南戦争に呼応した土佐立志社の挙兵計画に加担し、1878年に免官、高知の獄で禁獄5年を科せられた。1882年出獄後外遊。1890年第一次山県有朋内閣の第七代農商務省に就くとともに、最初の議会で政党工作に努め、続く松方正義内閣にも留任したが、選挙干渉問題をめぐる政府の責任を追及して辞任した。

 近代日本が最初に戦った本格的な対外戦争は、1894年(明治27年)~1895年(明治28年)の日清戦争だ。この戦争で日本はアジアの大国・清に差をつけて、欧米近代国家の仲間入りを果たした。この日清戦争を演出したのが、第二次伊藤博文内閣の第八代外務大臣・陸奥宗光だ。彼は利害が一致した、参謀本部次長の川上操六中将と腹を合わせ、出兵の兵力についても密談を重ねた。そして併行して条約改正交渉を進めた。その結果、ロシアとの関係で日本の力に頼る必要があったイギリスを味方につけ、対外硬派による反対を抑え、彼はこのときまでに、こじれにこじれ懸案となっていた条約改正に成功。1894年、日英通商航海条約の調印にこぎつけ、治外法権の撤廃を実現したのだ。また三国干渉の処理にあたるなど外交の第一人者として活躍した。“カミソリ陸奥”の異名はここから生まれた。

(参考資料)奈良本辰也「日本史の参謀たち」、徳富猪一郎「蘇翁夢物語-わが交遊録」、池波正太郎「戦国と幕末」