在原業平・・・「つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを」

 人間の死に例外はない。誰にでも訪れる。しかし、昨日今日とは思わなかった-という驚きと不安と絶望、さらにはこの世に対する未練など様々な心情や思いが含まれた歌だ。 

 在原業平(825~880年)は平安初期の歌人で六歌仙の一人だが、「色好み」として知られている。業平の恋のアバンチュールの相手は二条后・藤原高子と恬子内親王とが主なものだ。藤原高子は清和天皇の后であり、陽成天皇の母だ。恬子内親王は文徳天皇の皇女であり、伊勢の斎宮として男性との一切の交渉を禁止されていた女性だ。このほか、清和天皇の后で貞数親王の母である姪の在原文子とも、仁明天皇の皇后で、文徳天皇の母である藤原順子、すなわち五条后とも男女関係があったとみられている。すべて貴顕の、いやもっといえば、通常は全くタブーの相手ばかりなのだ。

 こうみてみると、業平の恋の情熱は普通の形では燃え上がらず、なぜかタブーを犯した時に初めて激しく燃え上がるのではないか。その理由は彼の生まれにあるのではないだろうか。彼は平城天皇の皇子・阿保親王の第五子で、その母伊豆内親王は桓武天皇の皇女だ。平城天皇は嵯峨天皇の兄で、本来なら彼はこの平城天皇の系譜に伝えられるべきであった。しかし、「薬子の乱」によって一門は失脚し、阿保親王は親王の位として最も低い四品にとどまり、伊豆内親王は无品であり、その子供たちも826年、やむなく臣籍に下り、「在原」姓を名のったのだ。

 これは勝手な類推に過ぎないが、業平の心の中に“天皇”への野望が隠れていたのではないかと思われる。「薬子の乱」などの混乱が起こらなければ、本来、自分は天皇となるべき存在だったのに-との密かな思いがあったのではないだろうか。それで、現実には叶えられぬ痛切な、無念の思いを、タブーの天皇の后妃たちとの恋に身をやつし、人生のすべてを捧げたのではないか。

 業平はその容姿が美しく、美男の典型とされている。放縦で物事にこだわらず、天才肌で多くの優れた歌を残している。次の歌などはよく知られている。

 世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
世の中に桜がなかったら、春の日々はもっとゆったりと暮らすことができるだろうに。桜があるために忙しくてしかたがない-という意味だ。それほど、この時代の人々は桜の咲く頃を、桜の美しさを讃えるとともに、桜に様々な思いを託して楽しんだのだ。
 
 『伊勢物語』は色好みの男としての伝説を歌物語に結晶させたものだ。この中のよく知られた秀歌も取り上げておきたい。

 名にしおはばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
これは武蔵と下総の境の隅田川で詠んだ歌だ。都鳥(ユリカモメ)という名をもつ鳥と聞いて都の恋人を想い起こすのは業平ならではだ。いま、東京の中心を流れる隅田川には言問橋(ことといばし)、その支流に業平橋がかかっている。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」