鳥居耀蔵・・・洋学嫌いが高じて「蛮社の獄」をでっちあげた“妖怪”

 江戸時代末期の幕府重臣だった鳥居耀蔵は、一貫して洋学に反感を持ち、それが高じて洋学者に憎悪の目を向け、高野長英、渡辺崋山らの洋学者を大弾圧した「蛮社の獄」をでっちあげたとの見方すらある。多くの場合、悪役のレッテルを張られるケースが多いのだが、“妖怪”とも称された彼は世間から“悪役”の衣を着せられたのではなく、むしろ確乎たる悪人だったのではないか。

 鳥居耀蔵は大学頭・林述斎の次男として生まれた。名は忠耀(ただてる)。25歳のとき旗本、鳥居一学の養子となった。1837年(天保8年)、目付けとなった。この年はアメリカ船モリソン号が日本人漂流民を乗せて渡来するにあたり、渡辺崋山が「慎機論」を、高野長英が「夢物語」を著して、幕府の撃退方針を阻止しようとしたが、とくに崋山は時勢に遅れた鎖国体制の固守はかえって外国の侵略を招く恐れのあることを強調した。崋山に限らず、蛮社の人々は江戸湾が封鎖された場合、幕府のお膝元である江戸の物資がたちまち払底するだろうという恐れを共通して抱いていた。

 蛮社は、江戸の山の手に住む洋学者を中心として、新知識を交換するためにつくられた会合の名称で、「尚歯会」または「山の手派」ともいわれた。蛮社は「蛮学社中」の略だった。三河田原藩の家老・渡辺崋山を盟主とし、町医師・高野長英、岸和田藩医・小関三英らの蘭学者、勘定吟味役・川路聖謨(としあきら)、代官・江川太郎左衛門栄龍、代官・羽倉外記、内田弥太郎(高野長英門下)らの幕吏、薩摩藩士・小林専次郎、下総古河藩家老・鷹見忠常、農政学者・佐藤信淵(のぶひろ)らを加えた、つまりは開明分子の一団だった。

 こうした時代背景の中で、老中・水野忠邦は「寛政の改革」以来の江戸湾防備体制をさらに強化する必要があると判断。1838年(天保9年)目付・鳥居耀蔵と、代官・江川栄龍に、浦賀など江戸湾の防備カ所の巡見を命じた。ところが、この命に鳥居耀蔵は過剰に反応。儒学を信奉していて異常なほどの洋学嫌いな彼は、日頃、強い反感を抱いていた蛮社の人々に報復する絶好の機会と捉え、近世洋学史上最大の弾圧といわれる“蛮社の獄”へとエスカレートさせていくのだ。

 鳥居耀蔵は小人目付・小笠原貢蔵に、老中・水野忠邦の内命と偽って蛮社の面々を探索するように命じた。それを、情報を提供した下級役人の花井虎一からの密訴という形で告発状をつくり、これを水野忠邦のもとへ提出した。この結果、政治を論じた「慎機論」「西洋事情」などの草稿が発見された渡辺崋山は、政治誹謗のかどで厳しい吟味を受け、藩に累が及ぶことを怖れた崋山は、自決している。高野長英も逃亡生活を送った後、自決。また代官・江川栄龍をも失脚に追い込んでいる。このような探索、吟味のやり方はすべて鳥居耀蔵の手によるものだった。

 水野忠邦がリーダーとなった「天保の改革」においても鳥居耀蔵は“活躍”する。彼は天保12年、策動して失脚させた矢部定謙(さだのり)に代わって南町奉行に栄転し、鳥居甲斐守忠耀となった。しかも、天保の改革が民衆から予想をはるかに上回る反発を受け、反対派の台頭が目覚しくなってくると、彼は直属の上司の水野忠邦を裏切り、反対派に機密書類を提供して寝返りを打った。

出処進退の潔さが強く求められた時代に、この往生際の悪さはどう表現したらいいのか。悪の典型といわれても仕方あるまい。
 この後、鳥居耀蔵は四国丸亀に25年もの長きにわたり幽閉され、奇跡的に生還。78年の人生を生き抜いた。まさに“妖怪”だ。

(参考資料)吉村昭「長英逃亡」、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、松本清張・松島栄一「日本史探訪/開国か攘夷か」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、白石一郎「江戸人物伝」