東洲斎写楽・・・10カ月間に140数点の作品を残し、忽然と姿を消した作家

 東洲斎写楽は江戸中期の浮世絵師で、1794~95(寛政6~7年)の約10カ月間に140数点ものおびただしい役者絵などの作品を残したが、その後は忽然と歴史から姿を消してしまった。写楽は歴史を通じて日本美術を代表する作家の一人といっていいだろう。

ところが、意外なことにその実像は謎に包まれている。浮世絵師に記された落款とわずかな史料以外、写楽について伝える記録は残されていないのだ。この完璧なまでの歴史的空白は、まるで当時の関係者たちが意図的に“演出”して、作り出しているかのような印象さえ受ける。果たして、謎に包まれている写楽の実像は?その正体は?

 1794年(寛政6年)5月、写楽は28点の大判錦絵をひっさげて華々しくデビューした。「寛政の改革」を実施した松平定信は老中を辞したものの、引き続き贅沢は厳しく取り締まられていた時代のことだ。当時江戸で上演されていた歌舞伎に登場する役者たちを描いた28点の「大首絵」は写楽の代表作であり、その構図や独特のタッチはそれまでにないものだった。

その異様なまでの迫力に満ちた人物描写がヨーロッパ人にも高く評価され、20世紀初めに写楽を西欧へ紹介したドイツ人研究家、ユリウス・クルトはベラスケス、レンブラントとならぶ三大肖像画家の一人に数えたほどだ。

 謎の第一は活動期間の短さだ。写楽の作品が初めて世に出たとされるのは1794年(寛政6年)5月。ところが、翌1795年(寛政7年)2月以降の作品は1点も見つかっていない。活動期間わずか10カ月間だ。この10カ月間に140数点もの傑作を残したわけで、大雑把に計算すれば、2日に1点という大変な制作スピードだ。

 謎の第二はデビューの仕方だ。通常、絵師は読本や黄表紙の挿絵から描き始め細判、小判という小さいサイズを経て、初めて大判の絵を描くチャンスを与えられる。しかし、写楽はいきなり大判を描いている。謎の第三は最初から、絵のバックに高価といわれる雲母摺(きらず)りを使っていることだ。当時、雲母摺りを使えたのは歌麿と栄松斎長喜くらいだった。したがって、「写楽」とは無名の新人ではなく、名のある浮世絵師の別名(ペンネーム)ではないかという見方が生まれてきた。

写楽別人説は大きな謎を投げかけている。いうまでもなく、それは写楽は誰かという謎だ。これまで写楽ではないかいわれた絵師は喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川豊国、鳥居清長、栄松斎長喜、司馬江漢、円山応挙など数多い。また、画家以外の名を挙げる説も多い。例えば「東海道中膝栗毛」で知られる戯作者の十返舎一九、同じく戯作者兼浮世絵師の山東京伝、そして能役者の斎藤十郎兵衛なども有力な写楽候補だ。さらに問題を複雑にしているのは、写楽は何も1人に限らないという視点だ。つまり、写楽とは2人あるいは数人による共同ペンネームだとする説も提唱されている。これなら、謎の第一に挙げた2日に1点という制作スピードも、少しは納得できるのだ。

謎の第四は無名の役者も描いたという点、140余点の版元がすべて蔦屋という点も、当時の常識からは考えられないことだ。

 写楽別人説の多くは、どれもそれなりの根拠を構えている。しかし40人を超える候補の乱立は、裏を返せば大半が決め手に欠けていることの証といってもいい。果たして写楽は誰か?

(参考資料)梅原猛「写楽 仮名の悲劇」、高橋克彦「写楽殺人事件」、歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」