明智光秀にはどうしても主君、織田信長を討ったダーティなイメージがある。この点については非難の声が大きく、近代に入るまで“逆賊”としての評価が圧倒的に多かった。とくに儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では「本能寺の変」の当日、信長の周辺には非武装の供廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、本能寺の変後に神君徳川家康が伊賀越えという危難を味わったことなどから、このことが強調された。しかし、光秀の実像はかなり違うようだ。生没年は1526~1582年。
明智氏は美濃の守護土岐氏の庶流とされるが、光秀の前半生は判然としない。光秀は公家の社会・しきたりにも明るい知性・教養派でありながら、一時は織田勢の有力武将のなかでも1、2を争うまでに武功を上げている優れた武将だった。足利義昭が信長と対立し始めたのを機に、義昭と袂を分かち信長の直臣となり各地を転戦。1571年(元亀2年)頃、比叡山焼き討ちの功績を認められ近江国滋賀郡を与えられ、坂本城を築いて居城とした。
1575年(天正3年)に惟任(これとう)の姓、従五位下、日向守(ひゅうがのかみ)の官職を与えられ、惟任日向守と称した。城主となった光秀はさらに、石山本願寺や信長に背いた荒木村重と松永久秀を攻めるなど近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略を担当。1579年(天正7年)、横山城主・小笠原大膳を自害に追い込んで平定した。横山城をわが物とすると、光秀はさっそく改築に取り掛かった。近郷の墓石や五輪塔をかき集めて石垣とし、これを福智山城と名付けた。「智」が「知」となったのは、1728年(享保13年)のことだ。
その丹波で光秀は領主として様々な善政を敷いている。彼は由良川という暴れ川に堤を作って、農民を水害から救った。また、農民が領主に収める税の一部を吸い取ってしまう地侍を退治、農民を助けた。このため、現在でも丹波で、地侍の子孫の中には光秀を悪くいう人がいるが、一般には評判が良く、広く敬われている。彼が民政を重視した結果だ。
また、丹波と山城の国境にある老ノ坂に差し掛かる手前に位置する亀岡市。かつては亀山といったが、伊勢亀山と区別するため明治2年に亀岡と改められたのだが、この亀山の発展のそもそもは光秀の治政によるものだ。
丹波を平定して、丹波29万石を領有することになった彼は、1573年(天正元年)から1年半かけて城を築いた。三重の堀に囲まれ、三層の天守閣を持つ亀山城は、東西1.5・、南北800・に及ぶ城下町を持っている。彼は丹波一国に近江の坂本を合わせた自分の領国の本拠地、いわば司令部をこの亀山に置こうとしたのだろう。わずか6万石の領内にしては破格な規模の城下町の佇まいだ。それだけに領民の誇りも高く、優れた光秀の民政力と相まって、亀山は繁栄の地となった。
本能寺の変の際も、明智軍1万3000はこの亀山城で戦備を整えて出発していったのだ。無念の最期を遂げた彼の、それまでの善政を慕う領民が、その霊を祀っている。こうしてみると、明智光秀は“主君弑逆”で民政手腕を評価されない“悲劇の名君”といえよう。
(参考資料)村松友視「悪役のふるさと」、井沢元彦「明智光秀の密書」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、杉本苑子「決断のとき」、海音寺潮五郎「武将列伝」