孝明天皇の崩御をめぐっては、『孝明天皇紀』にも肝心の死因についての記載がなく、毒殺説をはじめ多くの疑問がある。幕末、朝廷・公家、幕府・諸藩・志士たちを含めた開国派と攘夷派の対立は激化。攘夷の意思が強く、公武合体により、あくまでも幕府の力による鎖国維持を望む孝明天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出ようになった。こうした人たちの勢力が天皇を追い込み、毒殺を謀ったのか?天然痘が原因なのか。その死因は謎だ。
第121代・孝明天皇は仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘、藤原雅子(新待賢門院)。幼名は煕宮(ひろのみや)、諱は統仁(おさひと)。正妃は九条尚忠の娘、九条夙子。孝明天皇の生没年は1831(天保2)~1867年(慶応2年)。在位は1846(弘化3)~1867年(慶応2年)でこの間、幕府は十二代将軍家慶、十三代家定、十四代家茂、十五代慶喜の四代にわたっている。
1840年(天保11年)に立太子。1846年(弘化3年)、父・仁孝天皇の崩御を受け践祚した。父同様に学問好きな性格で、その遺志を継いで公家の学問所、「学習院」を創設した。また、1853年(嘉永6年)のペリー来航以来、孝明天皇は政治への積極的な関与を強め、1858年(安政5年)、40年にわたって朝政を主導してきた前関白鷹司政通の内覧職権を停止して、落飾に追い込み、さらに2カ月後、現関白・九条尚忠の内覧職権も停止して朝廷における自身の主導権確保を図った。
さらに、孝明天皇は幕政に発言力を持ち、1858年(安政5年)、日米修好通商条約の締結にあたって、幕府が事前の了解を求めた際、これを拒否。大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶと、これに不信を示し、退位の意向も示した。そして、攘夷強硬派の公卿に動かされ、水戸藩に幕政改革を求める「密勅」を発したほど、攘夷の立場で幕府を強く指導した。1863年(文久3年)攘夷勅命を下した。これを受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が勃発した。
しかし、「八月十八日の政変」(1863年)にあたっては攘夷派公卿と袂を分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。そして、異母妹、和宮親子内親王を第十四代将軍家茂に降嫁させたのをはじめ徳川慶喜、松平慶永、山内容堂ら雄藩藩主を中心とする公武合体を目指し、岩倉具視ら一部公卿の王政復古倒幕論には批判的だった。それだけに、家茂が上洛してきたときは攘夷祈願のため石清水八幡宮などに行幸、京都守護職・会津藩主松平容保への信頼はとくに厚かった。
こうした尊皇攘夷派・開国派による権力をめぐる争いに巻き込まれ、孝明天皇個人の権威は低下していくことになった。公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出するようになったのだ。薩摩藩はじめ岩倉具視や、薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房までもが天皇に批判的な動きをするようになった。
1866年(慶応2年)、第二次長州征伐中に将軍家茂が急死すると、孝明天皇は征長の停止を幕府に指示。これに伴い、幕府の統制力の崩壊は決定的となった。そして、第十五代将軍に慶喜が就任した直後、孝明天皇は急逝したのだ。強硬な尊攘派公卿、とくに岩倉具視らが京都回復を狙い、薩長による武力倒幕の動きが具体化していたときだけに、陰謀による毒殺との説が有力視された。公式には天皇が痘瘡(天然痘)に罹っていたことは発表されたが、それが直接の死因だとするには、全く説得力がなかった。
孝明天皇は長年の間、悪性の痔(脱肛)に悩まされていたが、それ以外ではいたって壮健だったという。公家・政治家の中山忠能の日記にも、「近年、御風邪の心配など一向にないほど、ご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた」との感想が記されている。
(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、安部龍太郎「血の日本史」