天智天皇・・・謀略を駆使し、頂点に昇りつめた自己顕示欲に長けた策謀家

 天智天皇(当時は中大兄皇子)は、母・皇極帝の3年、「乙巳(いっし)の変」で中臣鎌足らと謀って、当時極めて大きな権勢を誇った蘇我氏(蝦夷・入鹿)を打倒、叔父・軽皇子を即位させ、孝徳天皇として立てて「大化改新」を断行。のち再び母を即位させ、自らは皇太子として政務を執った。こうしてみると、表面上はNo.2に甘んじる控えめな皇子を連想し勝ちだが、実はそうではない。様々な背景・理由があって即位することはなかったが、実権は彼が掌握していたのだ。有間皇子、蘇我倉山田石川麻呂、そして孝徳天皇など、彼にとって邪魔な存在はすべて謀略にかけ、追い込んで排除していく策謀家の側面が強い。

 天智天皇は父・田村皇子(後の舒明天皇)、母・舒明天皇の皇后、さらに後に即位して皇極天皇、重祚して斉明天皇となる宝皇女との間に生まれた。名は葛城皇子、開別(ひらかすわけ)皇子。田村皇子即位後、蘇我馬子の娘を母とする古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子とともに、皇位継承資格者とみなされ中大兄皇子を称した。皇后には古人大兄皇子の娘、倭姫(やまとひめ)を迎えた。父、古人大兄皇子は孝徳朝初期に吉野にあったが、謀反のかどで中大兄皇子の兵に捕らえられ殺害された。その際、倭姫は幼少のため中大兄皇子に引き取られ、後に輿入れしたのだ。

 天智天皇をめぐる女性の数は多く、嬪(みめ)として遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)、橘娘(たちばなのいらつめ)、常陸娘(ひたちのいらつめ)が嫁ぎ、さらに女官として色夫古娘(しこぶこのいらつめ)、黒媛娘(くろめのいらつめ)、道君伊羅都売(みちのきみいらつめ)、伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)らが後宮に入った。遠智娘との間には建皇子、大田皇女、○野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)が生まれ、姪娘との間には御名部(みなべ)皇女や阿閉皇女(後の元明天皇)が、伊賀采女宅子娘との間には伊賀皇子(後の大友皇子=弘文天皇)が生まれた。

 中大兄皇子は、大化改新以前は隋に渡った南淵請安や僧旻(みん)から大陸、半島情勢を学び、高句麗や百済の動向、さらには唐の覇権拡大などを十分認識して皇室を中心とする中央集権国家の樹立に邁進した

 冒頭で様々な事情から即位せず、皇太子として政務を執り続けたと述べたが、その最大ともいえる事情の一つが実妹、孝徳天皇の皇后となった間人皇女(はしひとのひめみこ)と、男女の関係にあったと伝えられることだ。これは由々しきことだ。古代社会では、同母でなければ兄弟姉妹での男女関係、あるいは婚姻に至るケースはよくあり、決して珍しくない。近親同士の男女関係、いや婚姻についても甥と叔母、叔父と姪のケースは極めて多いとさえいえる。

ところが、実父、実母同士の男女関係は、現代はもちろん、古代社会においても厳に認められておらず、タブーとなっていた。中大兄皇子(=天智天皇)はこのタブーを破って、長く間人皇女との男女関係にあったので、即位したくても即位できなかったのだ。それでもいっこうにひるむことなく、実権は握り続けたわけだ。中大兄皇子は誰も仕返しが怖くて、そのことを指摘し非難できないことをいいことに、やりたい放題だったのだ。それほど身勝手で、自分だけは別の存在だとばかりに振る舞う、まさに“専制君主”あるいは“悪魔”のような人物だった-といった方が的を射ているかも知れない。

天智天皇とは、こんな人物だったから側近はいつもピリピリし、表面上は絶対服従の姿勢を示しながらも、内心はうんざりして、周囲も辟易していたろう。同天皇の打ち出す朝鮮半島政策に対する危うさも加わって、新羅、高句麗からの渡来人・帰化人らが入り混じった形で、反対勢力がいつどのように動き出してもおかしくなかった。同天皇が進言に耳を貸す人物でないだけに、朝鮮半島政策の路線を修正・変更するには抹殺するしかなかったわけだ。

 天智天皇の死には謎が多い。歴代天皇の中で天智天皇の墓がないのだ。山科の草むらで同天皇の沓が見つかったが、『扶桑略記』には亡骸は遂に見つからなかったとある。何者かに襲われ殺害された可能性もあるのだ。それが、弟の大海人皇子に好意を寄せていた勢力の人物だったかも知れない。

(参考資料)遠山美都男「中大兄皇子」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、黒岩重吾「天の川の太陽」、井沢元彦「隠された帝」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編」、井沢元彦「日本史の叛逆者 私説壬申の乱」、梅原猛「百人一語」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化の改新の謎」