蘇我氏一族の中で、馬子直系の氏族は大臣(おおおみ)として権力を独占、蝦夷・入鹿父子は我が世を謳歌したが、同族内で陽の目を見ず、これに不満を持っていた有力者がいた。それが蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)だ。蘇我入鹿暗殺事件の際、中臣鎌足(後の藤原鎌足)に引き込まれ、彼が朝鮮使の上表文を読み上げ、これを合図に決行するという重要な役割を演じている。石川麻呂はクーデター成功後、その報酬として右大臣ポストを得ている。
そして、これを機に鎌足の仲立ちで、彼は娘を中大兄皇子の妃に送り込み、天皇家との結びつきを強くしている。これにより先々、これまでの蘇我本家に代わり、分家の蘇我倉家が隆盛期を迎えたかに思われた。ところが、大化の改新が一段落ついたところで、今度は彼の異母弟を使った、鎌足と中大兄皇子の卑劣な謀略によって抹殺されたのだ。蘇我倉山田石川麻呂の生年は不明、没年は649年。
蘇我倉山田石川麻呂の父は蘇我馬子の子、倉麻呂。したがって、彼は馬子の孫だ。本宗家の蝦夷は伯父、入鹿は従兄弟にあたる。兄弟に日向(ひむか)・赤兄(あかえ)・連子(むらじこ)・果安(はたやす)らがいる。本宗家討滅計画に加わり、娘の造媛(みやっこひめ)、遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)を葛城皇子(中大兄皇子)の妃に入れた。また、娘の乳娘(ちのいらつめ)は軽皇子(孝徳天皇)の妃とした。こうした閨閥づくりは後に花開くことになる。遠智娘は大田皇女(大伯皇女、大津皇子の母)、_野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)、姪娘は御名部皇女(高市皇子の妃<長屋王の母>)、阿閉皇女(後の元明天皇、草壁皇子の妃)をそれぞれ産んでいる。
蘇我入鹿暗殺のクーデターの翌日、早くも新政権樹立の準備が始まり、皇極天皇の後継に年長の軽皇子が決定、孝徳天皇となった。当時、軽皇子は50歳、中大兄皇子は20歳だ。大化改新を推進するにあたって、クーデターで動揺している宮廷を治めるにも、こうした長老を立てておくのが人心を収拾するには上策だ。そして、従来の大臣・大連に代わって設置されたのが左大臣・右大臣だ。左大臣に元老格の阿倍内麻呂(倉梯麻呂)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が就任した。
しかし、石川麻呂は左大臣・阿倍内麻呂の死後、649年(大化5年)異母弟の蘇我日向に、石川麻呂に謀反の疑いがあると讒言され、これを信じた中大兄皇子の追討を受ける破目になった。難波から2子、法師(ほうし)・赤猪(あかい)を連れて、大和の山田寺へ逃げ帰った石川麻呂は、追討軍に周囲を取り囲まれた。それでも石川麻呂は天皇から遣わされた勅使の審問に応じず、天皇に直接対面して事の真相を語りたいと申し出た。だが、これは受け入れられず、石川麻呂は従容として死を受け入れようと、集めた一族に語りかける。長子の興子(こごし)らは抗戦を主張したが、石川麻呂はこの意見を退け、妻子らとともに自決した。連座した者のうち斬殺された者14人、絞刑に処せられた者15人に上ったという。この事件、実は中大兄皇子による謀略だったのではないか。
石川麻呂の異母弟、日向はまんまと中大兄皇子にいいように踊らされ、兄殺しを手伝わされた格好だ。
石川麻呂の死後、彼の潔白が証明され、中大兄皇子は讒言した日向を筑紫に追放した。
(参考資料)関裕二「大化改新の謎」、神一行編「飛鳥時代の謎」、安部龍太郎「血の日本史」、遠山美都男「中大兄皇子」