藤原兼家・・・初めて摂政・関白・太政大臣を歴任した人物

 藤原兼家は、藤原氏の中でも初めて摂政・関白・太政大臣を歴任した人物だ。天皇の外戚となり、権謀術数の限りを尽くして地位を確立した藤原氏は、兼家の子、道長の時代に絶頂期を迎える。兼家は、その道長の全盛時代の礎をつくったのだ。兼家の生没年は929(延長7)~990年(永祚2年)。
 藤原兼家は藤原北家の流れ、藤原師輔の三男で、母は藤原経邦の娘盛子。道隆、道兼、道長、道綱らの父。妻の一人に『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱母がいる。

兼家は円融天皇のとき、長兄の伊尹(これただ)が早世すると、次兄兼通と摂関の地位をめぐって激しく対立した。兼家は次の関白を望んだが、結局敗れ、その地位は兼通に奪われてしまった。ここから兄弟による、ちょっと信じがたいほどの対立状態が続き、兼家にとって不遇の時代が続いた。関白となった兼通は兼家を憎み、ことごとく兼家の出世の邪魔をし、死に際には兼家を大納言から治部卿に降格させることまでやった。どうして?そこまでやるか?くらいの意地の悪さだ。

 なぜ、兄弟間のこんな陰湿な対立が生まれたのか?それは、ずばり弟の兼家が兄の兼通の官位を超えて出世してしまったからだ。967年(康保4年)、冷泉天皇の即位に伴い、兼家は兼通に代わって蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねた。翌968年(安和元年)には兼通を超えて従三位に叙された。969年(安和2年)には参議を経ずに中納言となった。蔵人頭は通常、四位の官とされて辞任時に参議に昇進するものとされていた。しかし兼家は従三位に達し、さらに中納言就任直後までその職に留まった。

これは長兄伊尹が自己の政権基盤確立のため企図したもので、宮中掌握政策の一翼を兼家が担っていたからだと考えられる。そして、これが「安和の変」に兼家が関与していたとされる説の根拠とされている。その後、伊尹が摂政になると、兼家はさらに重んじられた。伊尹は兼家が娘の超子を入内させるのを黙認しただけでなく、972年(天禄3年)には兼家を正三位大納言に昇進させ、さらに右近衛大将・按察使を兼ねさせた。その結果、兼家の官位が兼通の上となり、このため兼通の兼家に対する恨みが増幅した形となったのだ。

 972年(天禄3年)伊尹が重病で辞表を提出すると、当然兼家は関白を望んだ。しかし兼通がこの事態を黙ってみているわけはなかった。そして兼通は「関白は宜しく兄弟相及ぶべし(順番に)」との円融天皇の生母安子の遺言を献じたのだ。孝心篤い天皇は遺言に従い、兼通の内覧を許し、次いで関白とした。兼通の勝利だった。

 兼通に妬まれていた兼家は不遇の時代を過ごすことになった。兼家の娘・超子が冷泉上皇との間に居貞親王を産むと、兼通はこれを忌んで円融天皇に讒言した。また、兼家が次女の詮子を女御に入れようとすると、兼通はこれを妨害した。兼家の官位の昇進も止まってしまった。『栄華物語』によると、兼通は「できることなら(兼家を)九州にでも遷してやりたいものだが、罪がないのでできない」とまで発言している。

 兼通の、兼家に対する憎しみは死を前に爆発する。きっかけは、兼通の勘違いだった。977年(貞元2年)、重体に陥った兼通が邸で臥せっていたとき、兼通の門前を通りかかった兼家の車が当然、見舞いにきたものと思っていたが、実はそうではなく、通り過ぎて禁裏へ行ってしまったことを激怒したのだった。そこで兼通は、病身をおして参内して最後の除目を行い、関白を藤原頼忠に譲り、兼家の右大将・按察使の職を奪い、治部卿に格下げした。兼通は最後の力を振り絞って、兼家にできる限りのダメージを与えることに執念を燃やしたのだ。そして満足したか、程なく兼通は死去した。

 兼家の出世にとって最大の“障害”だった兼通が亡くなったことで、あとは策略と処世術に長けた兼家自身が、外戚の立場を最大限に活かし、着実に階段を昇るだけだった。兼通の死後は右大臣に任じられ、次第に朝廷内での権勢を得ていった。そして、寛和2年6月には息子、道兼を使い策略によって花山天皇を出家させ、退位させた。そして娘が産んだ一条天皇の擁立に成功。986年、念願の摂政に就任した。その後、兼家の家系が摂政を独占することになった。

 ただ、兼通・兼家の兄弟の間に憎しみにも似た争いがあったように、勝者の兼家の息子・孫の世代でも争いは繰り返されている。中でも兼家の末っ子、道長と長兄道隆の子供(伊周ら)たちとの官位争いだ。両家一族挙げての対立は、ほとんど手加減なしの想像以上に激しいものだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、永井路子「この世をば」、笠原英彦「歴代天皇総覧」