本阿弥光悦・・・刀剣、書家、陶芸など芸術の万能人としてその名を残す

 光悦を生んだ本阿弥家は、刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業として、足利尊氏の頃から、その道では最高の権威を持つ名家だった。ただ、光悦自身は刀剣にとどまらず、「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また陶芸、漆芸、茶の湯などにも携わった芸術の万能人(マルチアーティスト)として、その名を残している。

 本阿弥光悦は、「刀・脇差の目利細工並びもなき名人」といわれた光二を父とし、才気煥発で男勝りの賢夫人妙秀(みょうしゅう)を母として、京都に生まれた。子供の頃から家業を厳しく仕込まれたことが、後年、光悦の幅広い分野での活躍の基礎になったと思われる。刀剣には柄から鞘まで様々な工芸の技術が結集されている。木工も漆工も金工も、皮や紐の細工、象牙・螺鈿の彫り物など、ありとあらゆる技法が刀剣に集まっているのだ。

 光悦は京都洛北、鷹ヶ峰に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。1615年(元和元年)、大坂夏の陣で徳川氏の政権がようやく確立した直後、家康から鷹ヶ峰の地に東西200間、南北7里にわたる広々とした原野を拝領し、今も残る光悦町の名に見る通り、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住、新しく町造りを始めた。蒔絵師・紙師・筆屋など、本阿弥家とゆかりの深い工芸家たちが、ぎっしりと屋敷を連ねていたと思われる。鷹ヶ峰は光悦の芸術活動にとって、理想的な環境となった。彼はこの地で、80歳の生涯を閉じるまでの22年間、周囲の工芸家たちを縦横に使って、あの多種多様な芸術作品を世に送り出していく。芸術の組織者、美の演出家、光悦の真骨頂は、鷹ヶ峰芸術家村においていかんなく発揮されたのだ。

 家康が光悦に鷹ヶ峰移住を命じた理由は2点あると思われる。一つは光悦が、徳川家にとって危険人物とされていた古田織部と親交があったためで、その警戒心から、京都の町から彼を所払いさせたのではないか。後に、古田織部は徳川幕府への反逆者として切腹させられている。もう一つは家康が自ら光悦に新しい所領を与えることによって、室町将軍以来の刀剣の名家である本阿弥家を、自分の影響下に置きたかったのではないか。

 「本阿弥行状記」によると、当時の鷹ヶ峰は辻斬りや追い剥ぎの出没するところで、とても一人では暮らしていけるところではなかった。したがって、光悦は一族郎党を率いて移住しなければならない。だから光悦は、初めから鷹ヶ峰に理想郷を造ろうと考えて移ったのではなかった。むしろ権力に無理にやらされたわけだ。しかし、彼はその与えられた環境を自分の力で造り変えていったのだ。
 光悦はいろいろな物を作っている、ただ、光悦自身が手掛けて自分だけの作品といえるのは書と陶器だけだ。あとのものはすべて人を使って、つまり「光悦工房」の技術者を使って制作しているのだ。その陶器では、光悦が日本で初めて、個人作家として現われてきた存在といえるのではないか。光悦が茶碗を焼いたのは晩年に近い頃と思われるが、まろやかで、あたたかい、すべてを包み込むような潤いが、彼の作品の大きな魅力となって、光悦の人となりが焼き物の中に、にじみ出て迫ってくるのだ。

 光悦は、王朝文化復興の強力な担い手として、時代の脚光を浴びたのだ。桃山芸術を代表する本阿弥光悦と俵屋宗達の不思議な出会いは、今も謎に包まれたままだ。宗達の才能を認めた光悦は、大和絵古来のモチーフである四季折々の草花を描かせ、その上に自ら筆をとって「古今集」の秀歌を散りばめ、見事な「和歌巻」を完成している。俵屋宗達、尾形光琳とともに琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は限りなく大きい。

(参考資料)加藤唐九郎・奈良本辰也「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」