山東京伝 ・・・初めて職業として戯作活動を行った江戸の代表的作家

山東京伝は江戸時代を代表する戯作者だ。従来の戯作者は、そのほとんどが余技で書いており、原稿料もほとんどなかった。これに対し、彼は職業として戯作活動を行い、原稿料が支払われるようになったのは彼が最初だともいう。また、松平定信が推進した「寛政の改革」で出版取り締まりにより、彼の洒落本三部が摘発され発禁となり、手鎖(てぐさり)50日の刑に処せられたことで知られている。
山東京伝は江戸・深川木場で岩瀬伝左衛門の長子として生まれた。生家は質屋だったという。本名は岩瀬醒(さむる)。通称は京屋伝蔵。「山東京伝」の筆名は、江戸城紅葉“山”の“東”に住む“京”屋の“伝”蔵からといわれる。ほかに山東庵、菊亭主人、醒斎(せいさい)、醒々老人、狂歌には身軽折介(みがるのおりすけ)などの号がある。合巻作者の山東京山は実弟。
山東京伝は浮世絵師・北尾重寅に学び、18歳で草双紙(黄表紙)の挿絵画家、北尾政寅(まさのぶ)としてデビュー。20歳ごろから黄表紙と呼ばれる絵入り読物を書き始める。黄表紙や洒落本を数多く書き、売れっ子作家となり、とくに『御存知商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』(1782年)で一躍、黄表紙作者として脚光を浴び、恋川春町(こいかわはるまち)、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)らの武家作者と並び、天明・寛政期(1781~1801年)の中心的戯作者の地位を占めた。
ところが、1791年(寛政3年)、洒落本三部作『錦之裏(にしきのうら)』『仕懸(しかけ)文庫』『娼妓絹?(しょうぎきぬぶるい)』が、松平定信が推進した「寛政の改革」の出版取り締まりに触れ摘発・発禁処分となり、手鎖50日の筆禍に遭った。これに懲りたか、山東京伝は路線を変更。その後は読本作家として新境地を開き、享和・文化期(1801~1818年)には“飛ぶ鳥落とす勢い”だった曲亭馬琴に対抗し得た、ただ一人の作家だった。
そして、そのかたわら考証随筆にも名著を残した。その代表作には黄表紙に『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわさのかばやき)』(1785年)、『心学早染草(しんがくはやぞめぐさ)』(1790年)、洒落本に『通言総籬(つうげんそうまがき)』、『古契三娼(こけいのさんしょう)』(ともに1787年)、『繁千話(しげしげちわ)』、『傾城買四十八手(けいせいかいしじゅうはって)』(ともに1790年)、読本に「忠臣水滸伝」(前編1799年、後編1801年)、『昔語稲妻表紙(むかしがたりいなずまびょうし)』(1806年)、随筆に『近世奇跡考』(1804年)、『骨董集』(1814、1815年)などがあり、貴重な史料として今日に残している。
門人には曲亭馬琴はじめ数人いるが、その影響は十返舎一句、式亭三馬、為永春水らにも及ぼしている。
京伝は生涯で二度結婚したが、相手はいずれも吉原の遊女上がりだった。また、京伝には尾張藩主・徳川宗勝の落胤説がある。

(参考資料)井上ひさし「山東京伝」、

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