原市之進・・・徳川慶喜の側近・黒幕で、取るべき行動を指示、画策

 徳川家では、征夷大将軍になるには必ず徳川家の当主でなければならないという取り決めがあった。世襲制であると同時に、徳川家の当主を兼ねた。手続きとしては、まず宗家の当主になりその後、朝廷から征夷大将軍の宣下を受けることになる。しかし、徳川家の当主になったときは、たとえ養子でもすぐにそのまま征夷大将軍に移行するということが慣行になっていた。

ところが徳川慶喜の場合は違った。彼が徳川宗家の当主になったのは、1866年(慶応2年)8月のことだが、将軍になったのはこの年12月5日のことだ。約半年間、空白期間があるのだ。そうさせたのは慶喜の黒幕だった原市之進の画策だ。原はこの頃、慶喜の黒幕としてピタリとついていた。

 慶喜の実質的に将軍宣下に“待った”をかけた原市之進の言い分はこうだ。徳川宗家の当主を引き受けることは構わないが、徳川幕府が置かれているこの大変なときに、今すぐ将軍を引き受けるのは得策ではない。どうせならなければならないのなら、もっと恩に着せて、大名会議にどうしてもあなた(慶喜)に将軍になってほしいと要望させるのです。安売りはいけません-と進言した。そして、そのため京都にいる老中・板倉勝静殿と画策中です-という。

 この頃、幕府は第二次長州征伐の最中だった。その総指揮を執っていたのが、大坂城までやってきた十四代将軍徳川家茂だ。まだ年若な将軍で、妻は天皇の妹、和宮内親王だった。しかし、病弱な家茂はこの戦いの最中に死んでしまった。そのため、慶喜は早急に要望されて徳川宗家を相続したのだ。いままでのルールで、当然そのまま将軍職に就くものと思っていたのに、ブレーンの原が反対した。

 原市之進は元々、水戸藩の藩士だ。水戸斉昭のブレーンだった藤田東湖の従弟にあたる。幼名は小熊。諱は忠敬、忠成。別名は任蔵。号は尚不愧斎。字は仲寧。通称は伍軒先生。藩の勘定奉行を務めた水戸藩藩士・原雅言の次男として生まれ、弘道館で学んだ。1853年(嘉永6年)、昌平坂学問所に入学。その後、水戸に帰国して弘道館の訓導(現在の先生)となり、奥右筆頭取に任命された。
1863年(文久3年)、原は徳川慶喜の側近となり慶喜の補佐を務める。1864年(元治元年)、慶喜の側用人(一橋家家老)だった平岡円四郎が暗殺されると、慶喜の側用人となった。1866年(慶応2年)、慶喜より幕臣として取り立てられる。原自身は聡明で、慶喜に忠義を尽くしていたが、その功績を妬む者も多く、平岡円四郎同様に奸臣と見做されていた。

 原市之進の前半生は波乱に満ちている。若い頃、幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)に心酔し、川路が対露交渉のため長崎に行ったときは、その従者として一緒に行った。その頃、原は当時はやりの過激な攘夷論者だった。だから、彼の交際範囲は、いわゆる“志士”と呼ばれた連中にも広く及んでいる。とくに安政年間には水戸藩は、日本の攘夷派のメッカであり、期待する人々が多かった。長州の桂小五郎や、備中松山藩の山田方谷などとも交流があり、当時の原はこうした過激派の先頭に立って、攘夷論者の幹部として活躍していたのだ。

 1862年(文久2年)、江戸城の坂下門で老中の安藤対馬守が襲撃された事件の背後に原はいたのだ。安藤を襲撃して捕らわれた浪士が持っていた斬奸状の文面は、原が書いたという噂がもっぱらだったという。しかし、彼は表には出なかった。黒幕としてこの事件の脚本を書き演出した。彼の黒幕としての資質は天性のものであったといっていい。

 1867年(慶応3年)、8月14日、原市之進は自宅で同僚の幕臣、鈴木豊次郎と依田雄太郎に暗殺された。背後には山岡鉄舟がいたといわれる。黒幕の原の死後、慶喜の行動は常にフラフラ、グラグラとぶれ、“優柔不断な男”のレッテルを貼られることになった。原が健在なら慶喜の行動はもう少し違ったものになっていたのではないか。

(参考資料)平尾道雄「維新暗殺秘録」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」、童門冬二「江戸の怪人たち」