鳥井信治郎 「やってみなはれ」精神で、国産ウイスキー事業化に挑む

鳥井信治郎 「やってみなはれ」精神で、国産ウイスキー事業化に挑む

 サントリーの創業者・鳥井信治郎(とりいしんじろう)はブドウ酒の輸入販売から始め、日本人の口に合う甘味ワインの製造・販売に成功、国産ウイスキーづくりに挑んだ。そして苦難を乗り越えて、国産の洋酒を日本に広く根付かせた人物だ。社風をうまく表現した、部下への指示は「やってみなはれ」。自らもチャレンジ精神こそ企業活力の源泉であることを体現してみせた。鳥井信治郎の生没年は1879(明治12)~1962年(昭和37年)。

 鳥井信治郎は大阪市東区(現在の大阪市中央区)釣鐘(つりがね)町で両替商、父・忠兵衛、母・こまの二男として生まれた。忠兵衛40歳、母・こま29歳のときの子だ。10歳年長の兄・喜蔵(長男)、6歳上の姉・ゑん(長女)、3歳上のせつ(二女)の兄姉があり、彼はその末っ子だった。父は早く歿しており、彼は80歳まで生き周囲の人に豊かな愛情を注いだ母親に育てられた。

 信治郎は1887年(明治20年)、大阪市東区(現在の大阪市中央区)島町の北大江小学校へ入学。小学校を卒業した彼は、北区梅田出入橋の大阪商業学校へ入り、そこに1~2年在学した後、1892年(明治25年)、数え年14歳で親の家を出て、道修(どしょう)町の薬種問屋、小西儀助商店に丁稚奉公に出た。薬種問屋は旧幕時代までは、草根木皮の漢方薬だけ商っていたが、明治になると洋薬を多く輸入し、ブドウ酒、ブランデー、ウイスキーなどの洋酒も扱っていた。

 信治郎はこの店に数年いるうちに、時代の先端をいく新感覚を身につけるとともに、洋酒の知識を深めることができた。後年、彼が日本におけるウイスキー醸造業の開拓者となる素地は、この店でつくられたのだ。小西儀助商店で3~4年働いた後、彼は博労(ばくろう)町の絵具、染料問屋の小西勘之助商店へ移った。この店でも3年、合わせて7年ほどの徒弟時代を終えて、西区靭中通2丁目で1899年(明治32年)、鳥井商店を開業し、ブドウ酒の製造販売を始めた。数え年21歳のときのことだ。この年、父・忠兵衛が亡くなった。

 信治郎は、1906年(明治39年)には鳥井商店を寿屋洋酒店に店名を変更した。翌年には「赤玉ポートワイン」を発売した。1923年(大正12年)にはわが国初の美人ヌードポスターを発表、大きな反響を呼んだ。翌年には大阪府・島本町に山崎にウイスキー工場をつくった。木津川、桂川、宇治川の三つが合流し、霧が発生しやすい点が、スコッチウイスキーのふるさとに似ていた。竹林の下から良質の水も湧き出ていた。1926年(大正15年)には喫煙家用歯磨き「スモカ」を発売した。

 寿屋が初めてビール事業に進出したのは1928年(昭和3年)のことだ。横浜市鶴見区で売りに出ていたビール工場を101万円で買収。新市場に打って出たのだ。当時のビール業界は4社の寡占。価格も大瓶1本33銭と決まっていた。寿屋はそこに1本29銭でなぐり込みをかけ、さらに25銭まで値下げした。こんな大阪商人の思い切った安値攻勢に手を焼いた麒麟麦酒は、寿屋が他社の空き瓶にビールを詰め、自社の「オラガビール」のラベルを貼って出荷している点に着目し、商標侵害だと提訴した。麒麟は「ビール瓶を井戸水で冷やす際にラベルがはがれ、元の商標が表に出る」と主張。寿屋は敗北した。

 寿屋のビール工場は1カ所だけ。自社瓶しか使えないと、空き瓶の回収に膨大な手間とコストがかかる。負けず嫌いの信治郎は、ガラス研削用のグラインダーを20台導入した。他者の空き瓶から商標部分を削り取るためで、彼の執念の強さを感じることができる。そこまで手をかけたビール工場も1934年(昭和9年)、売却せざるを得なくなった。2年前には好調だった喫煙家用歯磨き事業を売却していたが、同時並行で進めていたウイスキー事業が難航し、資金繰りが逼迫してきたからだ。普通の経営者なら、追い詰められたとき、現金収入のあるビール事業や歯磨き事業を残し、メドが立たないウイスキー事業を整理していたはずだ。だが、そうしなかった信治郎のこだわりが、サントリーの歴史を運命付けたのだ。

 話は前後するが、信治郎がウイスキー事業への進出を決めた1920年代前半、信治郎は全役員の反対に遭った。そのころ英国以外でウイスキーをつくる計画は、荒唐無稽と思われていた。仕込みから商品化まで何年もかかるうえ、きちんとした製品になる保証はないからだ。「赤玉ポートワイン」の販売で得た利益をつぎ込みたいという信治郎に対し、将来ものになるかどうか分からない仕事に全資本をかけることはできない-と反対の合唱だった。ところが、信治郎は反対の声を聞けば聞くほど、事業家意欲を燃やし、「誰もできない事業だから、やる価値がある」と意思を貫き通したのだ。これがサントリーに流れ続けるベンチャー精神の源泉となった。

 創業者・信治郎は“やってみなはれ”を信条としていた。そして、その後継者・佐治敬三は“やらせてみなはれ”を信条とした。「やらせてみなければ人は育たない」。それはいわば、男の向こう傷は仕方がないということで、積極的に飛び出せば何かトラブルが起こる。しかし、何もしないで自滅するよりはいいじゃないかということでもあった。彼はさらに、経営の知恵はつまずき、考え、学び、迷うことの繰り返しの中から生まれてくる。明日の道は、今日の失敗と挑戦が創り出すものだと説いている。信治郎に始まるサントリーの社業の歴史には、こうしたチャレンジ精神が色濃く息づいている。

(参考資料)杉森久英「美酒一代 鳥井信治郎伝」、邦光史郎「やってみなはれ 芳醇な樽」、佐高 信「逃げない経営者たち 日本のエクセレントリーダー30人」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 鳥井信治郎」