定朝 寄木造りで仏像の制作技術に革命を起こした京仏師の巨人

定朝 寄木造りで仏像の制作技術に革命を起こした京仏師の巨人

 定朝(じょうちょう)は、平安時代後期に活躍した京仏師のトップに君臨した巨人で、分業による寄木(よせぎ)造りを推進、仏像の制作技術に革命を起こした人物だ。こうした功績と、藤原摂関家の氏長者(うじのちょうじゃ)・藤原道長の庇護を受けたこともあって、仏師として初めて、僧侶の位だった法橋(ほっきょう)、法眼(ほうげん)という僧綱位(そうごうい)を受け、仏師が造仏を通じて仏教興隆に貢献したという評価を受けた。このほか、定朝はそれまで寺院に所属し造仏を行ってきた立場から、独立した仏所を設けて弟子たちを擁し、限られた時間でも多くの造仏を行うというシステムをつくり上げた。

 定朝は仏師僧・康尚(こうしょう)の子。生年不明、没年は1057年(天喜5年)。文献上は多くの事績が伝えられ、各地には定朝作と伝えられる仏像が残っている。が、現存する確実な遺作は平等院鳳凰堂本尊の木造阿弥陀如来坐像(国宝)のみといわれている。ただ、「定朝洋式」が日本人の志向に合致し、その後の仏像彫刻に決定的な影響を及ぼしたことは間違いない。平安時代後期、京仏師は貴族の庇護の下で仏像制作に携わり、仏像修理が主な仕事だった奈良仏師および、後に生まれるその奈良仏師の巨人、運慶の境遇と比較すると、仏像制作の仕事には恵まれていた。

 定朝の特筆すべき功績の一つとして、まず挙げておかなければいけないのが、仏像の寄木造りの技法だ。10世紀までの仏像彫刻に多くみられた一本の木を素材とする一木造りから、定朝はそれまでなかった、数本の木を組み合わせて造る寄木造りの手法を生み出したのだ。この方法だと、分業で複数の仏師が同時に分担したパートの制作にかかれるわけで、大型サイズの仏像を含め、制作期間を大幅に短縮することが可能となった。定朝の主宰する工房は極めて大規模だった。それを裏付けるのが次の例だ。史料によると、1026年(万寿3年)8月から10月にかけて行われた、後一条天皇の皇后(中宮)威子(いし、天皇の外祖父・藤原道長の三女)の御安産祈祷のために造られた27体の等身仏は、125人もの仏師を動員して造られたことが判明している。

 1052年(永承7年)、関白・藤原頼通が父・道長から譲り受けた別荘「宇治殿(うじでん)」を寺に改め、開創したのが平等院だ。平等院鳳凰堂の本尊、定朝の最高傑作といわれる阿弥陀如来坐像について少し記しておこう。穏やかな顔に、たっぷりした頬の膨らみ、瞑想する半眼の目、豊かな胸元、そして結跏趺坐(かっかふざ)して上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)を結ぶ。背後には金色の光背、頭上にも、まばゆい金色の方・円二重の天蓋が覆い、周りには浄土の空に楽(がく)を奏でて飛翔する菩薩が舞う。

 皇円が著した史書「扶桑略記(ふそうりゃっき)」によると、阿弥陀如来坐像が鳳凰堂(阿弥陀堂)に安置されたのは1053年(天喜1年)2月19日。阿弥陀如来坐像は午前2時、京の仏所(工房)を出発、正午近くに宇治に到着。遷座式は天台宗寺門派園城寺(三井寺)の長吏明尊(ちょうりみょうそん)を導師に営まれた。周りを多くの僧たちが念仏を唱えながら行道(ぎょうどう)。散華(さんげ)のなかに楽人が舞い、妙なる雅楽が奏でられた。こうして、極楽浄土がここに舞い降りたのだ。

 阿弥陀如来坐像の安置される阿弥陀堂が鳳凰堂の名で呼ばれるようになったのは、江戸時代の初期といわれる。建物が鳳凰の姿を思わせ、また中堂の屋根に一対の鳳凰が飾られることに由来するという。この一対の鳳凰、北像と南像で大きさは異なるが、2像とも総高は1m足らず。これも定朝の意匠といわれる。

(参考資料)「日本史探訪/藤原氏と王朝の夢」、「古寺を巡る⑬ 平等院」