山本五十六 “熱い長岡魂”で、真珠湾攻撃を成功させた国民的英雄

山本五十六 “熱い長岡魂”で、真珠湾攻撃を成功させた国民的英雄
 連合艦隊司令長官、山本五十六の家系には、幕末の風雪の中で「武装中立」を叫び、明治新政府の北陸道鎮撫軍を迎撃。果敢に戊辰の北越戦争を繰り広げた越後長岡藩の軍事総督、河井継之助戦死のあとを守って、藩の総司令官になった23歳の若き家老、山本帯刀の“熱い長岡魂”が受け継がれている。五十六の生没年は1884(明治17)~1943年(昭和18年)。
 山本五十六は新潟県長岡市で長岡藩士、高野貞吉の六男として生まれた。五十六の祖父、高野秀右衛門、父の貞吉も戊辰の北越戦争を戦っている。この戦争に敗北し明治新政府の「逆賊」となった河井、山本両家から朝敵の汚名が消えるのは、五十六が生まれた1884年(明治17年)のことだ。そして、罪名が消滅した山本家を、旧藩主牧野忠篤から望まれて五十六が相続するのは、後年の1916年(大正5年)、五十六が海軍少佐のころだった。
 五十六は1919~23年アメリカに駐在してハーバード大学に学ぶ。25~28年アメリカ大使館付武官としてワシントンに駐在、28年空母「赤城」の艦長。29年ロンドン軍縮会議随員、33年航空本部技術部長・第一航空戦隊司令官などを経て、35年航空本部長になった。36年に海軍次官に就任、このとき米内光政海軍大臣、井上成美軍務局長とともに、日独伊三国同盟に体を張って抵抗した。そのため、脅迫状や暗殺の予告が相次いだ。
 39年、五十六は連合艦隊司令長官に就任。当時の旗艦「長門」に乗り込んだのは9月1日。この日ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったのだ。航空主兵論と短期決戦論に基づいて41年1月から真珠湾攻撃計画を立案、12月8日作戦を実行し成功させた。これにより彼の声望は絶大となり、国民的英雄と称えられた。しかし、早期決戦を意図して決行したミッドウェー作戦では、事前に待ち伏せしていた米機動部隊によって空母4隻を失う大敗北を喫した。
そして43年(昭和18年)4月18日、南太平洋方面の前線視察中にブーゲンビル上空で暗号を分析して待機していたアメリカの16機のロッキードP38戦闘機に五十六の搭乗機が撃墜され、戦死した。壮絶な最期だった。59年の生涯だった。今日では周知の通り、実は日本の情報は米軍に筒抜けだったのだ。公式発表では五十六は機上で被弾し、即死とされている。
 だが、大本営は五十六の戦死をすぐには発表しなかった。“無敵連合艦隊”の象徴、山本五十六の戦死はあまりにも戦意・士気の面でダメージが大きかったためだ。公表は、戦死から1カ月後の5月21日。五十六の死は海軍の軍人たちはもちろん多くの一般国民にも、深い悲しみと、戦争の前途に対する不安を与えた。五十六が戦死して、これはもう日本はもう駄目なのではないかと思った-ということは、五十六が海軍次官当時の副官たちをはじめ、多くの海軍関係者がそう証言している。
五十六は死後、元帥となり、43年(昭和18年)6月15日、9年前に東郷平八郎の葬儀が行われたのと同じ日を選んで、米内光政・海軍大将を葬儀委員長とする国葬が日比谷公園内の斎場で執り行われた。岡麓、斎藤茂吉、土屋文明、川田順、佐々木信綱、会津八一ら、大勢の歌人が悲しみの歌を詠み、高村光太郎、佐藤春夫、室生犀星、西条八十ら多くの詩人が五十六を悼む死を作った。
 山本五十六は男くさい魅力を持ったリーダーだった。嬉しいにつけ悲しいにつけ、彼はよく泣いた。人間としての情が、常人よりもはるかに多かったのだろう。部下だった山口多聞中将は「山本長官の部下思いは、単なる人情ではなく、命がけの迫力を感じました」と語った史料が残っている。
 もちろん、連合艦隊司令長官としてのリーダーシップを構成しているのは、こうした情ばかりではない。強烈な行動力、勝負師としての度胸と決断力に優れていた。大鑑主義が支配的だった海軍の中で、誰よりも早く「航空主力、戦艦無用論」を唱え、飛行機による艦船攻撃の優位性を説いた。それも精鋭主義ではなく、艦船攻撃は絶対に量だと主張し続けたのだ。

(参考資料)阿川弘之「山本五十六」、神坂次郎「男 この言葉」