蓮如・・・本願寺教団「中興の祖」で稀代の宗教オルガナイザー

 日本における今日の浄土真宗隆盛の礎をつくり、浄土真宗の本願寺教団の「中興の祖」といわれる蓮如は、稀代の宗教オルガナイザーだった。蓮如の目的はただ一つ、いかに仏の道を深く踏み分けるかではなく、いかに信徒を増やすか-にあった。彼には資金も伝手(つて)もなかった。あるのは繁盛する同門の寺々の存在だった。宗祖・親鸞は教義を何よりも重視し、教団運営はもとより、教団をつくることにすら否定的な人物だった。ただ、弟子、孫弟子、またその宿り木弟子たちが大勢いて、彼らが皆“親鸞ブランド”をかざして繁盛寺を構えていた。繁盛の原因は、難解な教義を説く態度はきれいに棄て、「いかに簡単に目的の幸福を手に入れるか」に変えてしまったところにあった。

 こうした現状を見据え、蓮如はいかに本願寺教団の信徒を増やすかに焦点を絞り、その布教戦略を立案、実践していった。それは・“親鸞ブランド”を最大限に活用する・民衆の拝“権威”意識を巧みに利用する・教義より民衆の現世利益意識に応える・「御文」で宗祖・親鸞の教義を説き、布教を積極化する・世の“金取り寺”とは差別化、独自化路線を打ち出す・宗祖・親鸞が厳禁とした「講」をも奨励する-などだった。

 民衆は誰しも死後、極楽浄土へ行きたいと願っている。さしずめ民衆はトラベル会社に極楽行きの切符購入を頼むお客なのだ。とすれば、客にしてみれば相手の会社が、経営基盤がしっかりしているという証がほしい。そこで、切符代を高くして客を圧倒し権威付けることによって安心させるのだ。困ったことに、民衆は高いものの方が、質が高いとすぐ錯覚する。となると、肩書きのあるブランド品=親鸞ブランドが最大限に威力を発揮するというわけだ。

 寺はあの手この手で人を集める。集まる人々は、しかしすぐ死ぬわけではない。取られる献金に対して、何かの手ごたえが要る。最初は死の恐怖克服のためだった宗教が、現世利益的に変わっていってしまった。そこで蓮如は、一念して仏に帰依すれば、すなわちこのとき己が仏に成る-と説く。最後には、あなた自身が仏や親鸞聖人と同格ですよ-と目一杯、精神面をくすぐるのだ。
 また、蓮如は「御文」で親鸞の教えを分かりやすく説くことも積極的に実践した。献金競争をして後生を僧に任せるのではなく、あの清廉な親鸞の精神に戻り、自分自身が積極的に学ぼう-と説いたのだ。親鸞の思想の正統を、誰でも容易に身につけられる方法を考え出した。それが、この「御文」だった。

 蓮如は数々の御文の中で、すべての念仏者は死んで極楽浄土で永遠に生きられることを教えている。そして蓮如は、極楽往生までのこの世の生活を、どのように過ごしたらよいか、政治的・社会的・宗教的などあらゆる角度から説いている。また極楽往生と現世利益の願いは矛盾するものではなく、念仏一つで同時に叶えられることも力説しているのだ。本願寺教団は、御文の精神を守ることによって、蓮如の存命中はもちろん、没後今日まで大過なく繁栄の道を歩むことができたのだ。
こうして蓮如は参詣の人一人もなく、寂れていた本願寺を「極楽浄土のようだ」といわれるほどに発展させた。親鸞が残してくれた思想によって救われた御礼すなわち御恩報謝(ごおんほうしゃ)を、弥陀と親鸞に対して果たすために、全生涯を捧げ尽したのだ。

 蓮如は本願寺第七代目法主(ほっす)、存如の第一子として京都・東山大谷で生まれた。幼名は布袋丸、法名は蓮如。院号は信證院、諱は兼壽、諡号は慧燈大師。蓮如上人と尊称された。蓮如の生没年は1415(応永22)~1499年(明応8年)。

 蓮如は本来、父の跡を継いで本願寺の法主の座に就くことは望めない境遇だった。実母が本願寺に仕える下女だったためだ。そして、この実母は蓮如が6歳のとき身を引き、姿を消してしまう。したがって、蓮如の幼・少年時代は、父・存如の正妻である継母との心理的相克があり、そして第八代目法主になるまで、貧苦のどん底生活など筆舌に尽くし難い、43年間にわたる“忍従”体験がある。そんな体験によって培われた精神的なタフさが、蓮如のその後の長期にわたる粘り強い布教活動を可能にしたのだ。

 蓮如は長い部屋住み生活を経験しているだけに、腰が低い。他人の心の動きが読める。勧誘するには相手のどこを衝かなければならないか?を肌で感じるというわけだ。彼は布教の天才だった。
 蓮如は85年の生涯で如了、蓮祐、如勝、宗如(いずれも死別)、蓮能の5人の妻を娶り、合わせて27人(13男・14女)の子供に恵まれた。それだけに、子供の養育には苦労したが、その子供たちが成人して教団の統制に大いに役立った。

(参考資料)笠原一男「蓮如」、大谷晃一「蓮如」、五木寛之「蓮如」