菅原道真・・・ 「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」

 これは延喜元年(901)正月、菅原道真が政敵、藤原時平一派の讒言、策謀にはめられ九州・太宰権帥に降され、出発するときに詠んだ有名な歌だ。この数日前に九州への配流が決まった時、宇多法皇に哀訴した歌が次だ。

 流れ行く我は水屑となりはてぬ 君柵(しがらみ)となりてとどめよ
 老齢で病を持つ道真は、すっかり打ちのめされ抵抗するすべもなく、恐らく出発する直前まで宇多法皇の執り成しによる窮状打開を期待していたことだろう。しかし、それは結束した時平一派のクーデターの前に叶わず、道真は無念の思いで太宰府への旅程についた。任官していた子息たちも左遷されて、それぞれ任地に下向した。その後の大宰府での幽閉に等しい生活をうかがわせるものに、道真自身の手で編まれた『菅家後集』という詩文集がある。この中から一首を次に掲げる。

  家を離れて三四月。
  涙を落とす百千行。
  万事皆夢の如し。
  時々彼蒼(大空)を仰ぐ。

延喜3年(903)2月、道真は失意のうちに大宰府で病死した。59歳だった。
 桓武天皇の孫を母として生まれ、藤原氏とは全く血縁関係がない宇多天皇と、道真の敵は摂関政治を独占する藤原氏だった。寛平3年(891)1月、太政大臣で、人臣で最初の「摂政」となった藤原基経が没すると、英邁な宇多天皇はこれを千載一遇の好機ととらえ、讃岐守だった道真を起用。蔵人頭(天皇の秘書官長)に抜擢し、政界にデビューしたのが3月29日。そして4月11日には佐中弁、翌年の12月には左京大夫と昇進し、次の年の2月には公家会議に参加できる参議にまで出世するのだ。道真49歳のことだ。現代の会社に置き換えて表現すれば、係長がわずか2年で取締役になるのと同じようなものだろう。この出世の早さはやはり異常だ。バランス感覚を欠いた“ひいき”と映ったことは間違いない。そして、道真は51歳で中納言に昇任する。

寛平9年(897)7月、宇多帝は31歳の壮年でありながら、敦仁親王(13歳)に譲位。この折も帝は道真ただ一人と相談したといわれている。目指すは“天皇親政”の復活だった。宇多上皇と道真は二人で醍醐帝を教導し、その治世中に権門藤原氏を排除し、律令政治本来の姿へ、朝廷を戻そうと考えたわけだ。昌泰2年(899)2月、左大臣となった時平は29歳。一方の道真はこの時、すでに55歳になっていた。
 道真をめぐる形勢は延喜元年(901)正月に急変する。時平一派が醍醐天皇に対して道真追放の工作を開始したからだ。時平は道真が天皇を廃し、皇弟で自分の女婿の斎世親王を皇位に立てようと企み、すでに宇多法皇の同意を得ていると述べた。時平は年少の天皇の不安感に鋭く触れて、道真の陰謀なるものを認めさせることに成功した。天皇はことの真否を法皇に質すいとまはなかった。その25日に詔を発して道真の行動に非難を加え、これを貶して太宰権帥とした。

こうして時平一派のクーデターが遂行された。
 ところで、道真がなぜ学問の神様である天神様に祀り上げられたのか。現在でも全国各地に天神様を祀る社は1万2000もあるという。道真の死後、京の都では異変が続出。まず彼を死に追いやった時平が6年後に39歳の若さで死去し、気象は荒れ放題で都では旱魃や飢饉が続いた。さらに死後20年後の923年に皇太子の保明親王が亡くなったことで、誰もが道真の怨念を感じたのだ。930年には左遷を認めた醍醐天皇までもが急死し、怨霊は「御霊」と呼ばれるようになり、恐怖が貴族たちに蔓延する。
そこで、霊を鎮めるための御霊会が始まるのだ。これは次第に公のものとなり政府が主催することにもなり、天暦元年(947)には京都の北野に神殿が建てられ天満天神として奉られる。だが、時代を経るにしたがって、怨霊は人々によって別の解釈がされるようになった。菅原氏が多くの学者を輩出したこともあり、学問の神様に変化していくのだ。さらに、それは発展し書道や文学の神様としても崇められるようになる。神様は皮肉にも藤原氏によって作り出されたのだ。波乱の人生を歩んだ道真は、その後没落していく藤原氏とは対照的に、1000年以上の時の中を生き続け、21世紀の現代でも学問の神様として毎年受験生たちの心の支えとなっている。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史4 平安京」、加来耕三「日本補佐役列伝」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」