荻野 吟・・・封建的な因習が残っていた明治初期、近代の女医第一号に

 何事も人がやらないことを初めてやろうとするのは大変なことだ。偏見と戦わなければならないし、様々な妨害も乗り越えなければならない。近代の女医第一号となった荻野吟の場合も、女医になるまでの道のりは実に険しかった。

 彼女は嘉永4年(1851)、武蔵国大里郡泰村で生まれている。頭は良かったが、ごく普通の豪農の娘として育てられ、親が決めた結婚相手と普通の結婚をしている。16歳だった。そのまま何事もなければ、恐らく彼女は普通の主婦として平凡な一生を送っただろう。

 ところが、結婚後しばらくして夫から性病の一つ、淋病をうつされたことによって、その後の吟の一生はガラッと変わることになった。明治早々のまだ封建的な因習が色濃く残っていた頃のことだ。病気そのものを夫からうつされたにもかかわらず、彼女は実家に戻され、次いで離婚させられている。全く理不尽な話だが、吟は黙ってそれに従うしかなかった。

 吟の実家は素封家だったので、経済的に困るというようなことはなかった。東京の順天堂病院に入院、治療に専念することになった。淋病なので、診察のたびに男の医師たちに女性性器を調べられる。まだ10代だった彼女にとってその恥辱はいかばかりだったか。このときの恥辱が、彼女を女医へと駆り立てたといっていい。江戸時代から産婆がいるのだから、女の医者がいてもいいではないか、自分は産婦人科医になろう-というわけだ。

 新しい時代、明治時代だが、医師の世界にまでまだ新しい波は押し寄せていない頃のこと、彼女が考えるほどことは簡単ではなかった。まず明治6年(1873)、彼女が23歳のとき、東京へ出て国学者で漢方医でもある井上頼圀の門に入った。西洋医学ではなく、なぜ漢方医なのか?それはその頃、女医そのものが一人もおらず当然、女医養成のための学校などあり得るはずもなかったからだ。このことは彼女がこの後、甲府の内藤女塾の教師兼舎監に、そして明治8年(1875)開校された東京女子師範学校に入学していることでも分かる。“筋違い”で、遠回りだが、こうした方法しかなかったのだ。

 ただ、彼女はそこで猛勉強する。そして、明治12年(1879)首席で卒業した。首席卒業の吟の将来の希望が女医だと知った同校の永井久一郎教授から紹介された石黒陸軍医監の口添えで、好寿院という医学校への入学が許可された。とにかく、それまで男にしか入学を許さなかった医学校に入ることができたのだ。だが、初めての女子の入学だ。好奇の目で見られたし、露骨に「女が来るところではない」といわれ、毎日のように嫌がらせやいじめがあるなど、そこでの勉学生活は決して快適なものではなかった。しかし、彼女はへこたれず、見事卒業したのだ。

 しかし、まだ彼女の前に立ちはだかるハードルは高かった。医者になるには医術開業試験に通らなければならない。ところが前例がないからと、受験そのものが却下されてしまったのだ。そこで、過去の日本の歴史上に女医がいたかどうかを調べた。すると、古代律令制の時代にも女医がいたことを突き止めた。その結果、明治17年(1884)6月、内務省もようやく女性に対し、医師の道を拓くことになった。同年9月、初めて女子にも開放された医術開業試験の前期試験が行われ、荻野吟のほか、木村秀子、松浦さと子・岡田みす子の3人が受験した。合格したのは吟だけだった。翌18年3月、後期試験が行われ、吟はこれも見事に合格し、ここにわが国初の女医(西洋医)が誕生した。

 ちなみに、女医第二号は翌19年11月に後期試験を通った生沢クノで、その後、高橋瑞、本多詮などが続いている。明治21年(1888)までの女性合格者は14人を数えている。後、同じように男たちのいじめにあいながら苦労して女医になった吉岡弥生が、後進の育成のために東京女医学校を設立したのは、明治33年(1900)のことだった。

(参考資料)吉村昭「日本医家伝 荻野ぎん」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、渡辺淳一「花埋み」