空海・・・密教に独創的な教理体系をもたらし、完成の域まで高めた天才

 弘法大師空海は日本仏教史および文化史の上に偉大な足跡を残している。空海の意図した宗教的世界は、周知の通り真言密教と呼ばれる。密教はインドに発したもので、実に難解な内容を持つが、東洋の仏教思想史上、その密教に独創的な教理体系をもたらし、完成の域にまで高めたのが空海だ。

 真言宗の開祖・空海は讃岐国多度郡屏風ヶ浦(現在の香川県善通寺市)で、父佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)、母阿刀大足(あとのおおたり)の娘(または妹)の三男として生まれた。幼名は眞魚(まお)。俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)。生没年は774(宝亀5)~835年(承和2年)。能書家としても知られ、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆の一人に数えられる。

789年(延暦8年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師だった母方の舅の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。792年(延暦11年)18歳で京の大学寮に入った。ところが、大学に入って一年後のことか、三年後のことか、時期ははっきりしないが、空海は突如として現世的栄達に背を向け、大学からも去って、山林修行に邁進し始めるのだ。

 そして、804年(延暦23年)正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る直前まで、御厨人窟(みくろど、高知県室戸市)、吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行に明け暮れたといわれる。ただ、この修行時代の詳細も、入唐直前まで私度僧だった空海が突然、留学僧として浮上する過程も、今日なお謎を残している。
 ただ、後の空海の行動や成し遂げた事績から推察すると、彼はいわばこの空白の期間に、諸経典のみならず南都六宗の教義、とりわけ密教につながる華厳教学に関してほぼ通暁するまでになっていたと思われる。また中国語やサンスクリットを修得したのもこの期間だったのではないか。さらに、空海を密教へ導いた密教の根本経典『大日経』との出会いもこの期間のことのようだ。

 いずれにしても、20数年ぶりに派遣される第16次遣唐使の一員、留学生(るがくしょう)として空海は渡航することになった。この遣唐使船(4艘で編成)には最澄が桓武天皇の信任を受け、留学生より格上の還学生(げんがくしょう)として、短期間滞在して天台教学を究めるため乗り込んでいた。

 空海の真の目的は真言密教を投網で打つように体系ぐるみ日本にもたらすところにあったが、このことは官に明かしていなかった。真言密教を体系ぐるみ導入するというのはひらたく言えば買ってくることなのだ。
 長安の諸寺を周遊した後、空海は青龍寺の恵果(けいか)と巡り合い、遂に正師と仰ぐべき名僧と確信。一方、恵果も空海の来訪を大歓迎したといわれる。中国密教の第一人者が、異国の僧をたった一度引見しただけで、たちまちその器を見抜き、空海を恵果自身が感得した正統密教の継承者として意識したのだ。このとき恵果は60歳で、健康に衰えがみえ、そろそろ後継者を選ばなければならない時期に直面していた。だが、弟子は1000人余いたものの、期待を託すに足る者といえば義明(ぎみょう)という弟子一人しか見当たらず、しかもその義明は病身だった。そんなところへ、思いがけず空海という大器があらわれたのだ。それは恵果にとっても、空海にとっても、ともに大きな幸運だった。

 恵果は空海が入門してほどなく、胎蔵界の学法灌頂(かんじょう)、金剛界の灌頂を授け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えた。さらに恵果は、まだ愛弟子の義明にも許したことのない伝法阿闍梨位の灌頂を遂に空海に授けた。こうして恵果から空海への伝法はここに成就したわけだ。

 留学生は20年の滞留を義務付けられているが、空海はこの1年余の間に目的のほとんどを達した。師恵果からも一日も早く故国に帰り、国のため万民のため密教を伝える算段をせよ-といわれている。空海という比類ない天才は、官から頂戴していた20年留学という分だけの砂金を、2年に短縮すれば集中的に大量に使うことができると判断したことだ。そして、空海の奇跡は一介の留学生にしてそれをやってのけたことだ。むろん、買って済むわけではなく、それらを理解しなければならないが、この点で空海の天才性はいうまでもない

 空海は、新訳などの経すべて142部247巻、梵字真言讃などすべて42部44巻、論疏章などすべて32部170巻、以上合計216部461巻に及ぶ経典、仏典を筆写、蒐集して持ち帰った。ほかに仏・菩薩・金剛天などの像、法曼荼羅、三昧耶曼荼羅、そして仏具・道具類などもあった。このために空海は大勢の写経生を雇い入れ、それはあたかも写経工場のようなものだったはずだし、仏像の制作に至っては多種類の工場を、一時的ながら空海は稼働させたことになったはずだ。金属製の仏具を改めて鋳造・彫金しなければならないから、空海が雇った仏師や画工は、下働きを含めて数百人といった規模になったのではないかとみられる。

 真言密教を体系ぐるみ持ち帰った空海を世の人々が注目するようになり、彼 が最澄とともに平安仏教界を指導する双璧となったのは812年(弘仁3年)、高 雄山寺における灌頂がきっかけだった。空海は嵯峨天皇に度々、そのひとつ一 つに心を込めた文章を付した贈り物をした。また同時並行して最澄との交渉も 頻繁に持った。これは主に書簡を介してのものだが、最澄の方が積極的だった ようだ。
これは遣唐使として入唐した際、中国ではすでに天台教学が斜陽化しつつあ り、密教が最新の仏教として脚光を浴びている状況だったのに、天台教学や禅を学んだ後、最澄が密教の典籍・法具などを伝承するとともに、金剛界・胎蔵界の灌頂を受けるなど、密教の資料収集や研修に時間を割けたのはわずか1カ月余に過ぎなかったからだ。いわば天台教学研鑽の片手間に密教を学んだに過ぎないという自覚を最澄が持っていたのだ。それだけに、密教をより深く体系的に修めた空海に、後輩であっても教えを乞う態度を取ったのだ。
 しかし、良好だった最澄と空海との交友関係にも徐々に亀裂が生まれ、最澄 の高弟、泰範問題によって、その溝が決定的に拡大、事実上断絶状態となった。 空海は816年(弘仁7年)、朝廷に上奏文を提出し、紀州高野山を密教修行の道 場として賜りたいと願い出た。そして819年(弘仁10年)、空海が作成した設 計プランに基づき、いよいよ堂塔伽藍の建設が始められた。
(参考資料)司馬遼太郎「空海の風景」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、百瀬明治「開祖物語」、八尋舜右「空海」、渡辺照宏・宮坂宥勝「沙門空海」、稲垣真美「空海」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」