柳沢吉保・・・綱吉の寵愛受け大老格に大出世、引き際鮮やかな策士

 柳沢吉保は、初めは小身の小姓だったが、徳川第五代将軍綱吉の寵愛を受けて、異例の大出世を果たし、元禄時代には大老格として幕政を主導した。その出世の裏に何かからくりがあったのか。柳沢吉保に“悪役”の世評が多いのはなぜか。

 吉保の悪役イメージの一つは、忠臣蔵ドラマで事件の黒幕・悪役として描かれることが多いためだ。事実、1701年(元禄14年)の江戸城松の廊下での吉良上野介に対する浅野長矩の刃傷事件の、幕府の裁断には綱吉はもちろん、綱吉の側用人だった吉保の意向が関係していたといわれる。また、彼には側室をめぐって、主君綱吉との間で尋常ではない噂もあったからだ。

 柳沢吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれた。母は安忠の側室・佐瀬氏。彼は房安、佳忠、信本、保明、吉保、そして保山と頻繁に改名を繰り返している。別名として十三郎、弥太郎(通称)とも呼ばれた。長男だったが、父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は姉の夫(父安忠の娘婿)、柳沢信花が養嗣子となって継いだ。吉保は館林藩主を務めていた徳川綱吉に小姓として仕えた。このことが、後の出世のきっかけになる。

 柳沢吉保が異例とも言える“出世街道”を走ることになるのは、1675年(延宝3年)、家督相続し、これを機に保明(やすあき)と改名してからのことだ。1680年(延宝8年)、徳川四代将軍家綱の後継として、弟の綱吉が将軍となるに随って保明も幕臣となり、小納戸役に任ぜられた。その後、綱吉の寵愛を受け頻繁に加増され、1685年(貞享2年)には従五位下出羽守に叙任。1688年(元禄元年)、将軍親政のために新設された「側用人」に就任。禄高も1万2000石とされて、遂に大名に昇ったのだ。

 そして1690年(元禄3年)に老中格、1698年(元禄11年)には大老が任ぜられる左近衛権少将に転任した。1701年(元禄14年)は彼にとって極めてエポックメーキングな年となった。主君・綱吉の諱の一字を与えられ吉保と名乗ることになったのだ。出世はまだ続く。1704年(宝永元年)、綱吉の後継に甲府藩主の徳川家宣が決まると、家宣の後任として甲府藩(現在の山梨県甲府市)15万石の藩主となった。甲府は江戸防衛の枢要として、それまで天領か徳川一門の所領に限られていた。それだけに甲府藩主になったということは、綱吉が吉保をほとんど一門も同然とみなすほど、激しく寵愛していたことを如実に物語っている。

 吉保にも誇るべき閨閥があった。側室に名門公卿の正親町公通の妹を迎えていた関係から、朝廷にも影響力を持ち、1702年(元禄15年)、将軍綱吉の生母、桂昌院が朝廷から従一位を与えられたのも、吉保が関白・近衛基煕など朝廷重臣たちへ根回しをしておいたお陰だった。綱吉の“引き”と、こうした功績がものをいったか、1706年(宝永3年)には遂に大老格に昇りつめたのだ。

 しかし、“幸運児”吉保にも陽の当たらなくなるときがくる。1709年(宝永6年)、吉保の権勢の後ろ楯ともいうべき綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。吉保に代わって、新将軍家宣の側近、間部詮房(まなべあきふさ)、儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは急速に失われていった。こうした状況を敏感に察知して吉保は自ら幕府の役職を辞するとともに、長男の吉里に家督を譲って隠居し、以降は保山と号した。その結果、その後、吉里の領地は甲府藩から郡山藩に移されたものの、柳沢家15万石の知行が減封されることはなかった。吉保の見事な引き際のお陰ともいえる。綱吉近臣派でも、その地位に留まろうとした松平輝貞や荻原重秀らは、新井白石らと対立して、免職のうえ減封の憂き目に遭っているだけに、極めて対照的だ。

 俗説によると、吉保の側室の染子はかつて綱吉の愛妾で、綱吉から下された拝領妻だという。そして、一説には吉里は綱吉の隠し子だともいわれる。もちろん、真偽のほどは定かではない。ただ、幕閣で権勢を誇った重臣で、次の将軍の下で生き抜くことや、家督を継いだ子供の世代に全く減封されることもなく、務め上げられるケースは少ないだけに、その背景・仔細を勘ぐりたくなる。前将軍・綱吉の近親者なら…と納得するところだが、事実は闇の中だ。

(参考資料)池波正太郎「戦国と幕末」