最澄・・・天台宗の開祖だが、信念のため妥協許さない姿勢が孤立招く

 平安仏教の双璧といえば、いうまでもなく天台宗と真言宗だ。そして、それぞれの開創者がここに取り上げる最澄と、後に仲違いし、決別することになる空海だ。最澄は桓武天皇の信任を得て、804年(延暦23年)、遣唐使派遣の際、還学生(げんがくしょう)として入唐。空海もこのとき、留学生(るがくしょう)に選ばれ渡航した。二人は偶然、同時期に渡航することになったが、還学生と留学生であり、二人の待遇・立場は全く違っていた。最澄がはるかに上だったのだ。最澄は天台を学び、帰朝後、天台宗を開いた。

 最澄は近江国滋賀郡古市郷で三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれた。幼名は広野。彼は12歳で同国の国師(諸国に置かれた僧官)行表(ぎょうひょう)について出家した。783年(延暦2年)、この俊敏な少年は得度し、15歳で法華経以下数巻の経典を読みこなしている。2年後に東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受けて一人前の僧になったが、ほどなく比叡山に入った。彼は、先に帰化した唐僧鑑真がもたらした典籍の中の天台宗に関するものに導かれて、新しい宗派への関心を深めていった。15~18歳までの間に沙弥としての修行は十分積んでしまったと考えられる。彼は都に行って、大安寺でさらに高度の勉学に励んだとみられる。

 最澄の存在は仏家の間で注目されるところとなり、内供奉(宮中に勤仕する僧)の寿興との交際が始まり、797年(延暦16年)、彼は内供奉十禅師の列に加えられた。そのころから彼は一切経の書写に着手し、南都の諸大寺そのほかの援助を得て、その業を完成させている。また、798年(延暦17年)に、初めて山上で法華十講をおこし、801年(延暦20年)には南都六宗七大寺の十人の著名な学僧を比叡山に招いて、天台の根本の経、法華経についての講莚(こうえん)を開いた。日本における天台法華宗の樹立という彼の事業が法華講莚という最澄らしいスタイルで始まったのだ。

 最澄はこのころ、すでに和気広世(清麻呂の子)というパトロンを持っていた。広世は和気氏の寺、高雄山寺に最澄を招いて法華の大講莚を開いた。こうして和気氏は最澄を広く世間に売り出した。ただ、最澄自身は独自に天台法華宗の樹立への志向を胸に秘め、桓武天皇への接近を周到に準備していた。その意味で、桓武天皇の恩顧を受けていた和気氏は、最澄にとって天皇への有力な橋渡し役となった。最澄には前途洋々たる未来が拓かれていたはずだった。

 ところで、唐に渡った最澄は、還学生という立場から滞在期間わずか8カ月半という短さのため、直ちに天台山のある台州に向かい、そこの国清寺の行満から正統天台の付法と大乗戒を受けている。多数の経典を書写するなどして目的を達した一方、最澄は唐において密教が盛んになっていることに驚き、にわかに密教を学んでいるが、これは時間的に短すぎて成果を得られなかった。最澄が帰国後、唐で恵果から密教の根本の教えを授けられた空海の帰国を待って、接近していくのはそのためだった。

 最澄は空海より7歳年上で、仏教界でも先輩にあたる。だが、唐で密教を十分に学ぶことができなかったことを後悔し、自分よりはるかに地位が低い空海に対し、教えを乞うたのだ。というのも最澄自身、密教を学ばなければならない立場に置かれていたのからだ。

空海は最澄に、自分が恵果から学んだことを教えた。そして、最澄は改めて空海から金剛・胎蔵両界の灌頂を受けているのだ。空海、最澄の親密な関係は、こうしてしばらくは続いた。ところが、その後、弟子の一人、泰範をめぐるトラブルなどから二人の関係は険悪化、やがて決別する。

 また、最澄は高い理想を掲げながら相次ぐ挫折を強いられる。信任を得ていた桓武天皇が亡くなって後、平城天皇、そして嵯峨天皇の御世となった。最澄にとっては厳しい時代を迎えていた。詩文を愛好した教養人、嵯峨天皇は空海と深い親交を持ち、対照的に最澄は時代の変遷から置き去りにされた。それでも、最澄はひるむことなく、あくまでも気高く道を求めて止まなかった。空海が包容力に富んだ弾力性を持った生き方をしたのに対し、最澄はどちらかといえば、信念のためには一点の妥協も許さないといった態度を貫き通した。そのことが最澄の孤立感をさらに増幅したといえよう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、永井路子「雲と風と 伝教大師 最澄の生涯」、司馬遼太郎「空海の風景」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、北山茂夫「日本の歴史 平安京」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」