太田道灌・・・力量・声望・実績がありすぎて、主君の妬みを買い葬られる

 京都の大半を焼け野原と化し、奥州・関東・東海を除く日本の至るところで、11年も続いた「応仁の乱」は終息したが、関東の騒乱はむしろ文明8年頃から激しさを増していく。そして、それが扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰・太田道灌の名を天下にとどろかせるとともに、またその実力がありすぎたがゆえに、後の悲劇を生むことにもつながった。

主君の「補佐役」の地位を運命付けられていたとはいえ、もし道灌に“下克上”に徹する思い切りがあれば、北条早雲が名を成すより早く、関八州を制圧できたに違いない。彼にはそれだけの力量、声望・実績があった。ところが道灌は、育った環境からか、思い切りがなかった。動かなかった。そのため反対に、主家の妬みを買い、トップに葬られてしまった。

 太田道灌は扇谷上杉家の家宰・太田資清の長子として相模国(現在の神奈川県)に生まれている。幼名は鶴千代。元服して源六郎持資、後に資長と称した。道灌は入道してからの号。江戸城を築城した武将として有名。生没年は1432(永享4年)~1486年(文明18年)。

 「関東管領」は京都にあった室町幕府の出先機関で、初代の関東管領は足利尊氏の四男・基氏が任ぜられている。その後、この出先機関が重きを成し歳月の経過とともに、その権威は肥大化。京都に対して“関東御所”“関東公方”などと格上げして呼ばれるようになり“管領”は執事として実務を総攬してきた上杉家の呼称となった。上杉家は山内・扇谷・詫間・犬懸の四家に分かれ、適宜、有能な人物が出て関東公方を補佐した。

 古河公方-堀越公方-関東管領・上杉家の3者は、その権威と実力で関東を3分していた。もっとも、武力による限りは関東管領=山内上杉氏が他の2者に隔絶している。四上杉家の中でも犬懸は先に滅亡。詫間は山内と友好関係にあり、扇谷は領地も軍勢もはるかに山内に劣っていた。それでも山内上杉家の人々は心底、扇谷に不安を抱いていた。扇谷上杉家の家宰・太田資清・持資(道灌)父子が、領内にくまなく善政を敷き、人材を育成して登用するなど、内実は侮り難い成果を挙げていたからだ。中でも持資=道灌の器量は、広く世に知られていた。

 道灌は9歳から11歳まで、鎌倉五山の寺院で学問を修めていた。戦国武将にあって、北条早雲などとともに秀でた学識を持つ、数少ないインテリだった。1455年(康正元年)、24歳で家督を継いだ道灌は、その頃はまだ武州(東京都)の荏原品川にいた。居館は御殿山あたりで、それを古河公方(足利成氏)との対抗上、江戸に移したのは翌年のことだ。江戸城は1年でほぼ完成している。平地に自然の地形と人工の堀をうがち、土居(土塁)を築き複雑な曲輪を組み入れ、防衛力を飛躍的に向上させた斬新な城だった。

 道灌は戦いの場においても、領内の施政においても打つ手が鮮やかで手際がよすぎた。力量、声望・実績がありすぎた。そのため、主家は道灌の存在が恐ろしくなり、疑心暗鬼に陥ってしまった。ここに悲劇の“温床”があったのだ。「道灌謀反」の噂はまたたく間に関東全域に広がり、山内、扇谷の両上杉が結託した。1486年(文明18年)、道灌は招かれた糟屋の扇谷上杉家の別館で暗殺された。「補佐役を」失った扇谷上杉氏は瞬時に機能を停止し、山内上杉氏との間では団結はおろか不和が表面化。両家の対立抗争は間断なく続き、遂には両家とも衰亡の途をたどることになった。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、安部龍太郎「血の日本史」