一休・・・カラスの鳴き声を聞いて大悟 風狂の人生を送った名僧

 一休は世間の常識や名誉欲・出世欲から離れて生きた禅僧だ。後小松天皇の落胤といわれる一休が、いかにして悟りを開き、独自の思想を築き上げていったのか。一休の生没年は1394(応永元)~1481年(文明13年)。

 一休宗純は京都・嵯峨の民家で生まれた。幼名は千菊丸、長じて周建の名で呼ばれ、狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号。父は後小松天皇、母は南朝の公卿の娘だったという。後小松天皇は、南朝と北朝とが一つになったときの北朝の天皇だ。南朝最期の天皇、後亀山天皇が京都に遷り、嵯峨の大覚寺に入られたのが1392年(元中9年)10月2日。10月5日には神器を後小松天皇に授けて、ここに南北朝の争いに終止符が打たれたのだ。その2年後に一休が生まれたことになる。

 一休が天皇の落胤でありながら、嵯峨の民家に生まれ、僧として生涯“風狂”の生活を営んだというのも、その出自に原因がある。南北朝が統一されたころはまだ、宮中も南朝方に対する敵対意識も取り去られてはいなかった。一休の母が南朝方の血をひいていると分かると、後小松天皇がどんなに深くその女性を愛していたとしても、いや深く愛していたればこそ余計に、宮中にいられなくなるようにされたのだ。こうして一休は、父の顔を知らず、父の名を口にしてはならない人間として、嵯峨の民家に生まれたのだ。

 将軍足利義満は統一された両朝が再び分裂することを恐れた。その原因になりそうなものはすべて排除されなくてはならないと考えた。このとき、最もその原因になりそうな存在がこの千菊丸だ。そして、6歳の年に寺に預けることでけりがついたのだ。京都・安国寺の長老、像外鑑公(しょうがいかんこう)の侍童となり、周建(しゅうけん)と名付けられた。この小僧時代のことを材料にして作られたのが『一休頓智咄(とんちばなし)』だ。恐らくほとんどが後世の創作だろうが、当時の周建に、そういう片鱗がなかったとはいえない。

13歳のとき周建は、東山の慕_(もてつ)禅師について漢詩をつくることを学んだ。そのころから彼は、毎日一首の詩を作ることを自分に課していた。これによって詩才は磨かれ、漢詩「長門春草」、15歳のとき作った漢詩「春衣宿花」は洛中の評判となり賞賛された。

 1410年(応永17年)17歳のとき、西金寺(さいこんじ)の謙翁宗為(けんのうそうい)の弟子となり、戒名を宗純と改めた。5年間みっちりと仕込まれたのだ。ある日、謙翁は「わしの知っている限りのことはお前に授けた。もはや教えるべきことは何もない。しかし、わしは師から悟ったという証明をしてもらっていないから、お前が悟ったという証明もしない」と周建にいった。謙翁の師は妙心寺の無因(むいん)禅師だ。無因禅師が謙翁の悟境を認めて印可しようとしたとき、謙翁は固く拒んで受けなかった。それに値しないと謙遜したのだ。こういうことは当時珍しいことだったので、周囲の人はこの人を謙翁(謙遜する翁)と呼んだのだ。この後まもなく謙翁は死んだ。周建がこの師を失ったことは大きな打撃だった。21歳の周建は石山観音に参籠し7日間、必死に祈った。だがどうにもならず、遂に彼は瀬田の唐橋から身を投げようとした。しかし、彼の身を案じた母が密かに見張らせていた下男が抱きとめて、この投身自殺は失敗に終わった。

 1415年(応永22年)、京都・大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となった。そして5年後の1420年(応永27年)のある夜、カラスの鳴き声を聞いて、俄かに大悟したという。華叟は印可状を与えようとしたが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後、一休宗純は退廃した仏教界の慣習を次々破り、戒律を無視して、肉食もすれば、女も抱く。名刹の住持になるよりも、一所不在-ある時は京にはほど遠く、ある時は山の奥深くに庵を結んで、定住はせず、詩・狂歌・書画と風狂の生活を送った。

 1474(文明6年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の第47代住持に任ぜられ、寺には住まなかったが、再興に尽力した。塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。自由奔放で奇行が多かった。1481年、一休宗純は88年の生涯を、酬恩庵(通称「一休寺」、京都府京田辺市)で閉じた。
 一休宗純が遺した言葉に、「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(狂雲集)などがある。

(参考資料)紀野一義「名僧列伝」、水上勉「一休」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」